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相手の視座に立つということ

私たちは日々の対話のなかで、「相手の気持ちを理解したい」「共感したい」と思うことがあります。そのときによく言われるのが、「相手の視座に立つことが大切だ」という言葉です。しかし、この「視座に立つ」という行為には、想像以上に繊細な配慮が必要だと私は感じています。

文化的背景をくみ取るという視点

「視座」とは単に立ち位置を変えるということではありません。人は誰しも、生まれ育った文化的背景や価値観、人生経験を通じて、ものごとを見つめる独自の「見方」を持っています。つまり、相手の視座に立つということは、相手がどのような背景を持ち、何を大切にし、どのように世界を見ているかをくみ取ることでもあります。

このとき注意したいのは、「くみ取ったものにすぎない」という感覚を持つことです。私たちがどれほど想像を巡らせても、それはあくまで私たち自身が構築した「仮の理解」に過ぎません。本当の意味でまったく同じ視座に立つことはできないという前提を持つことが、むしろ共感の質を高めるように思うのです。

「共感」が苦しみに変わるとき

ときに、相手の苦しみや悲しみに深く共感しすぎるあまり、自分自身も強く感情を揺さぶられてしまうことがあります。特に、HSP(Highly Sensitive Person)と呼ばれるような繊細な感受性を持った人や、他者の感情に引きずられやすい人にとっては、共感が重荷となることさえあります。

これは、相手の視座に「入り込みすぎる」ことで、まるで自分がその人になったかのような錯覚を抱いてしまうことから起こるのではないでしょうか。共感の意志が強ければ強いほど、自分の内側に相手の感情が深く浸透してくるような感覚にとらわれてしまうのです。

「横に立つ」共感のイメージ

こうしたとき、私が大切にしているのは「相手の横に立つ」というイメージです。それは、相手の視座に「重なる」のではなく、相手の背景をできるかぎりくみ取りながら、あくまで自分自身の位置から、相手の隣に立つという姿勢です。

この「横に立つ」姿勢では、相手の視座を理解しようとする一方で、自分自身の視座は手放しません。つまり、「相手の見方を理解しようとしている私」という視点を持ち続けることで、相手と自分とのあいだに健やかな境界線を引くことができるのです。

このような仮想の視座を築き、そこから相手を見守るように隣に立つことは、共感においても自分を守るためにも、とても大切なことだと感じます。

共感における「余白」を大切に

相手の感情や経験を尊重しながらも、「すべてを理解できた」と思わないこと。その「余白」こそが、私たちの共感をより深く、温かいものにしてくれるのではないでしょうか。

共感は、相手の痛みに一緒に沈むことではありません。相手の痛みにそっと手を添えるように、「私はここにいるよ」と伝えることなのだと思います。

とくに、感情に引きずられやすい方は、「視座を重ねる」のではなく、「相手の隣に立つ」というイメージを持つことで、より穏やかに他者と関われるかもしれません。

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