「配慮」や「排除」という言葉には、明確な“方向”があります。
たとえば、学会で「当事者の参加費は安く」という取り組みがあったとします。それは配慮だと受け取ることもできますが、同時に「学会から当事者へ」という一方向の矢印が見えてきます。つまり、誰かが誰かに対して「してあげる」という構図が、無意識のうちに前提とされているのです。
「排除」も同様です。誰かが誰かを外に追いやる力が、そこにははっきりと働いています。配慮も排除も、一見正反対のように見えますが、どちらも「する側/される側」がはっきりしている点では共通しています。
「調整」という言葉を聞いたとき
あるとき、ある方との会話のなかで、「それは調整ということじゃないかな」という言葉が印象的に残りました。
ちょうど私は、人との関係の中で、自分の立ち位置を静かに見直していた時期でした。「当事者であること」がその関係にどう影響するかを考え、少し距離を取るという選択をしたのです。
その選択に対して、親しくしていた方の中には「それは排除ではないか」と強く憤る人もいました。一方で、相手側は「配慮したつもりだった」と受け止めていたかもしれません。
けれど、私自身はそれを「調整」と感じていました。なぜなら、完全に一方的な出来事ではなく、お互いに言葉を交わし、それぞれの立場からの理解を試みたプロセスがあったからです。
双方向のやりとりがあるかどうか
「調整」という言葉には、双方向のやりとりが前提にあるように思います。
もちろん、「調整される」という表現を使えば受け身にも見えますが、それでもそこには合意や折り合いが含まれています。片方だけが強く主導したわけではなく、関係性のなかで方向が定まっていったという実感があるのです。
もし、私の意見がまったく受け取られなかったら、それは「排除」として感じたかもしれません。逆に、意見を伝える前に「あなたのためを思って」と一方的に決められていたなら、それは「配慮」の押しつけだったようにも思います。
私が「調整」だと受け止められたのは、相手とやりとりしながら関係性を動かしていくことができたからです。そのプロセスにおいて、私は「される側」でも「する側」でもなく、「ともに関係をつくる側」であると感じられました。
中動態という視点
この体験から私は、「中動態」という考え方を思い出しました。
中動態とは、能動でも受動でもない、そのあいだにある行為のあり方です。誰かに命じられて動いたわけでも、自分ひとりで決めたわけでもない。関係の中で作用し合い、結果として何かが動く。そのようなあり方です。
中動態の視点に立てば、「排除された」「配慮された」というような受動的な語りから離れ、自分の意思や関係の流れの中で意味づけをしていくことができます。それは、とても静かで、しかし力強い姿勢だと感じています。
「調整」という態度を大切にしたい
「配慮」も「排除」も、行為の矢印が一方向であることが多く、無意識のうちに関係の非対称性を生み出してしまいます。
けれど、「調整」という言葉には、そうした構図を和らげ、対等な関係を築く可能性が含まれています。それは、互いに違いを認め合いながら、共に動いていくという態度の現れなのかもしれません。
もちろん、すべての状況で「調整」が成立するわけではありません。けれど、少なくとも「調整しよう」とする意思のなかには、誰かとともに関係を築いていこうとする誠実さがあるように思うのです。
私は、これからもこの「調整」という視点を忘れずにいたいと思います。そして、関係のなかに潜む力のかたちを、少しずつ丁寧に見つめ直していきたいと願っています。
サトシさん コメントありがとうございます。 こちらこそいつもありがとうございます…