目的意識について
目的を意識することは、とても大切だと思っています。
一つ前の記事では、「ムダという余白」について書きました。
意味を見いだせない時間も、確かに必要だと思います。余白がなければ、窮屈さが一気に自分にのしかかってしまうからです。
その一方で、今日は「なんのために」という意識について考えてみたいと思います。
人は赤ん坊として生まれ、まず「感じる」ことを学び、次第に「考える」ことを身につけていきます。
赤ん坊の頃は、空腹や不快感を感じることしかできません。しかし、発達とともに外界から受け取る刺激は増え、それに伴って「考える」という営みも育っていくのだと思います。
小さな頃は、「どうしたら自分が満たされるか」を中心に世界を捉えているのではないでしょうか。
けれど、母親とのふれあいの中で、与えられる喜びだけでなく、与える喜びも知っていきます。どうしたら人に喜んでもらえるかを、少しずつ考えられるようになっていくのだと思います。
こうして振り返ってみると、人の成長はひと続きの流れの中にありますが、その中で意識の向かう先は、少しずつ変わっていくように感じます。
「感じること」が中心だった時期があり、「与えられること」を求めていた時期があり、やがて「与えること」に喜びを見いだし始める時期が訪れます。そして思春期になると、多くの人が「自分とは何者か」という問いと向き合うことになります。
人はある日突然、「目的意識」を持つわけではありません。
関わりの中で、失敗や戸惑いを重ねながら、少しずつ「なんのために」という視点を獲得していくのだと思います。
だからこそ、思春期に訪れる「自分とは何者か」という問いは、とても大きなものになります。
それまで、周囲の期待や与えられた役割の中で生きてきた人ほど、初めて「自分自身の目的」を問われたとき、立ち止まってしまうのではないでしょうか。
少し遠回りをしましたが、ここで話を戻します。
「なんのために、なにをするのか」という意識は、人が成長し、社会の一員として生きていくうえで、とても大切なものだと私は思っています。
赤ん坊の世界は、とても狭いものです。
母親との時間が大半で、その子にとっての世界は「私とお母さん」なのかもしれません。(お父さんもいるとは思いますが、笑)
その頃に芽生える目的意識は、「お母さんに褒められるために」という、とてもシンプルで大きなものではないでしょうか。
そこから成長し、学校に通い、社会に出る頃には、「なんのために」は人それぞれになっていきます。
「自分のために」を大切にする人もいれば、「家族のため」に頑張れる人もいます。
「世のため人のためが、巡り巡って自分のためになる」と考える人もいるでしょう。
「自分のためだけ」、いわゆる「自分が良ければすべてよし」という考え方は、時に他者の自由を侵してしまいます。
そのことを成長の過程で学べていれば、「自分のため」だけを基準に行動している人は、実はそれほど多くないのではないかと、私は感じています。もっとも、いろいろな人がいるので、断言はできませんが。
そんな成長の過程の中で、私たちは、自分なりに
「なんのために、何をするのか」
この問いに納得できたとき、はじめて行動へのエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。
私は小学生の頃、剣道を習っていました。
友達に誘われたことがきっかけでしたが、いつの間にか「人より強い自分でありたい」という欲求や、自分の頑張りを両親が一緒に喜んでくれることの嬉しさが、日々の鍛錬の原動力になっていました。
ところが大学生になった頃、「自分はなんのために」という問いに答えられなくなってしまいました。
目的意識がぽっかりと抜け落ちてしまい、その結果、私は精神を病みました。
アイデンティティの確立につまずいてしまったのだと思います。
社会に出る直前に、自分が自分で分からなくなってしまったのです。
自分は、なんのために在るのか。
その問いに、まったく答えられなくなっていました。
それでも私は、再び立ち上がり、今ここにいます。
今の私の目的意識は、「自分のため」であり、「家族のため」であり、「病気で苦しむ仲間のため」であり、「病気になりそうな仲間のため」、そして「まだ見ぬ社会の仲間のため」でもあります。
だから、私の中には、今とても大きなエネルギーがあります。
みなさんもぜひ、一度立ち止まって、「なんのために」を意識しながら、日々なにを選び、どう行動しているのかを、静かに振り返ってみてはいかがでしょうか。
















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