違和感として残った「もっと寄り添える空間だったら」
ある学びの場のあと、私は心の中にもやもやとした思いが残っていることに気づきました。それは、「この場がもっと寄り添い合える空間だったらよかったのに」という感覚でした。
学びの内容そのものももちろん大切ですが、それ以上に、放課後のような何気ない対話の中ににじみ出る寄り添いこそが、私が本当に求めていたものだったのだと思います。
思いを共有したときに返ってきた、意外な言葉
その思いを誰かと共有してみると、返ってきたのは予想外にやわらかな言葉でした。
「ああ、そんなふうに思っていたんですね。私はあまり意識してなかったかも」
その一言に、私はふと立ち止まりました。
自分の中に、「この場はこうあるべきだ」という思い込みがあったのではないか――そう気づいたのです。
「寄り添う姿勢」は、共有されていたとは限らない
私はずっと、自分では一貫して「寄り添う」という姿勢を保っていたつもりでした。
でも、それが他者にとっても同じように受け取られていたわけではなかったのだ、と初めて実感しました。
けれどそこに否定的な気持ちはなく、むしろその「ズレ」こそが、私にとっての新しい学びとなりました。
自分の中にあった「一貫した願い」に気づく
私は、自分の中に「どんな場でも、誰に対しても、寄り添いたい」という強い願いがあることに気づきました。それは日常生活の中でも常に意識し続けていることであり、ある意味では私の中に「一貫した姿勢」として根づいていたのかもしれません。
切り替えられる柔軟さもまた、大切な知恵
一方で、場面に応じて自然に意識を切り替える人もいます。
それは、必要以上に疲れないための知恵であり、自分らしさを守る手段でもあるでしょう。
私たちの意識の容量には限りがあります。だからこそ、無理にフル稼働しなくてもよいのだという柔軟な姿勢が、尊重されるべき選択であることを知りました。
一貫性と柔軟性、どちらにも意味がある
「一貫した姿勢」と「意識の切り替え」。
この二つはどちらが正しい・間違っているということではなく、それぞれに意味があり、場面や人によって選ばれるものです。
何より大切なのは、自分がどちらを選ぶのかという判断が、その人自身の価値観や生き方に根ざしているということ。
自分にも他者にも、やさしくありたい
私はこれからも、「寄り添いたい」という自分の気持ちを大切にしていきたいと思います。
ただ同時に、それを他者に強く求めすぎず、自分自身にも課しすぎないようにしたい。少し肩の力を抜いて、やさしく向き合っていけたらいいなと感じています。
気づきそのものが、学びのギフトだった
この気づきこそが、あの学びの場で私が得た、いちばん大切なギフトだったのかもしれません。
「場」に何かを求めるだけでなく、自分自身の中にある願いや姿勢を見つめ直すこと。
それが、本当の意味での「学び」なのだと、今は思っています。
ふくちゃん コメントとっても嬉しいです。 いつも本当にお世話になってます。 ご縁…