「それって理想論だよね」
あるときメンターにそう言われて、私は少し戸惑いました。驚いたというより、心の奥からじわじわと反発のような気持ちが湧いてきたのです。
——理念に理想を書いて、何が悪いんだろう?
そんなふうに感じた私は、「理想」という言葉の意味を、改めて見つめ直してみたくなりました。
「理」とは何を示すのか
まずは、「理想」の「理(ことわり)」という言葉について考えてみました。
古語において「理」とは、物事の筋道や道理、あるいは自然の法則を意味していたそうです。語源には、「玉の筋目を磨いて明らかにする」という意味も含まれていたといいます。
つまり「理」とは、混沌としたものの中から筋を見出し、それを磨いて明確にする行為でもあるのです。ただの論理や合理性ではなく、人や自然の在り方に即した、深い整合性を示す言葉なのだと感じました。
理想とは、理にかなった想い
「理」に「想い」が加わって、「理想」という言葉になります。
理想とは、ただの空想や夢物語ではありません。道理に根ざした想像力であり、現実の中に希望のかたちを描こうとする、筋道のある「想い」なのです。
現実の矛盾や困難を知りながら、それでも「こうありたい」と願う姿勢。
それは無責任な空想ではなく、人が世界に意味と方向を与えようとする営みだと、私は思います。
理想論という言葉にひそむ違和感
それでも、「理想論」という言葉には、ときに否定的な響きがまとわりついています。
「現実を見ていない」「そんなのは綺麗ごとだ」と言われるように、理想を語ることが、まるで現実逃避のように受け取られてしまうことがあります。
実際、理想を語ることで浮いてしまったり、白い目で見られたりする場面もあります。
けれど、私はこう思うのです。
本当に理にかなった理想であれば、それは現実から目を背けているわけではありません。
むしろ、現実の痛みや矛盾を正面から見つめたうえで、「それでもこうありたい」と手を伸ばしているのではないでしょうか。
理想ですらないものを「理想論」と呼んでいないか?
ここで、私はふと立ち止まりました。
もしかすると、「理想論だね」と切り捨てられてしまう言葉の多くは、本当の意味での理想ですらないのではないか、と。
理(ことわり)を欠いた「想い」だけでは、空想や願望にすぎません。
筋道も責任もなく、具体的な行動や他者との関係性もない「想像」は、理念とは呼べないと思います。
「理念」とは、「理」と「念」。
つまり、理にかなった深い思慮であり、現実へのまなざしを持ち、社会との摩擦を織り込みながら掲げる想いです。
現実との接点を見失ってしまった時点で、それはもう理念ではなく、理想ですらなくなってしまうのかもしれません。
理想を語るとは、現実に誠実であるということ
理想は、本来、私たち人間の想像力が世界に光を当てる営みです。
だからこそ、「それは理想論だよ」と言われたときには、むしろチャンスなのかもしれません。
自分が語っている理想が、現実とどれだけつながっているのか。
筋道はあるのか、対話の余地はあるのか。
そう問い直してみることで、その理想は、より強く、確かな理念になっていくのだと思います。
理想を語るということは、現実に対して誠実であるということ。
そう信じながら、私はこれからも、自分なりの理想を言葉にしていきたいです。
naoさんコメントありがとうございます。 おっしゃる通り、状況によっては「わから…