その行為は、誰のものか
その行為は、誰のものなのでしょうか。
自分のものだと思える行為と、
どこかで「やらされている」と感じてしまう行為のあいだには、
小さくても決定的な違いがあるように思います。
私は、ボランティアや仕事といった「誰かのための行為」について考えるとき、
いつもこの問いに立ち返ります。
ボランティア精神とは、身を粉にして他人に与えることなのでしょうか。
私は以前から、そのイメージに違和感を抱いてきました。
「ボランティアでやっていますから」
そう語られる場面に出会うたび、
どこか引っかかるものを感じてきました。
ボランティアでやっているから、何なのでしょうか。
その活動に意味を見出し、関わることを選んだのは、
本来、その人自身のはずです。
それでもなお、「やってあげている」という響きが滲むとき、
そこには善意とは少し異なるものが入り込んでいるように感じてしまいます。
もちろん、金銭的な対価を求めないことは、
ボランティアの大切な原則だと思います。
しかし私は、「対価を求めない」ということと、
「コストを払ってやってあげている」という意識は、
まったく別のものだと考えています。
後者の認識が前に出た瞬間、
関係は対等ではなくなり、
与える側と与えられる側という上下関係が生まれてしまいます。
私が健全だと感じるボランティア精神は、
もう少し違うところにあります。
金銭的な見返りは求めません。
けれど、その行為の中で、
自分が確かに意味を見出していることは、
はっきりと自覚している状態です。
その意味は、誰かに与えられたものではなく、
自分で見つけ、自分で引き受けたものです。
だからそれは、ある意味で「自分都合」でもあります。
そうした認識を持つと、態度は自然と変わってきます。
「やってあげている」のではなく、
「自分が意味を感じ、やりたいから、やらせてもらっている」。
この姿勢に立ったとき、
相手との関係はより対等になり、
静かな謙虚さが生まれるように思います。
そして、このとき初めて、「責任」が生じます。
自分で意味を引き受けて関わっているからこそ、
結果についても引き受けざるを得なくなります。
「ボランティアだから」という言葉は、
免罪符にはなりません。
むしろ主体的に関わっている以上、
責任は自然と自分の側に戻ってくるのだと思います。
この考えをさらに深める中で、
私は「見返り」だけでなく、
「やらされている感」こそが、
主体性を奪う大きな要因なのではないかと感じるようになりました。
理由を外側だけに置いた行為――
頼まれたから、
立場上仕方なく、
期待されているから。
こうした理由が積み重なると、
人は「やっている」のに、
「自分がやっている感じがしない」状態に陥ってしまいます。
この構造は、ボランティアに限った話ではありません。
働くことについても、同じだと感じています。
お金をもらえるから、
頼まれているから、
という外的理由だけに立っていると、
やはりどこかで「やらされている感」が残ります。
お金そのものが問題なのではありません。
お金が、自分の内側の意味――
生活を支えるため、
家族を守るため、
別の活動を続けるための基盤になる――
そうした意味と結びついているなら、
それは立派な内的理由になります。
結局のところ、問題は
「理由をどこに置いているか」なのだと思います。
理由を外に預けたままでは、
主体性は必ず摩耗していきます。
しかし一度その理由を自分の内側に引き戻し、
「それでも自分はこれを選ぶ」と引き受け直したとき、
行為は再び自分のものになります。
見返りを求めないという態度は、
無私であるためのものではありません。
主体性を他者に預けないための姿勢なのだと思います。
同じように、「やらされている感」に気づくことは、
利他を手放すためではなく、
利他を持続可能なものにするために必要なことなのではないでしょうか。
利他とは、自分を消すことではありません。
自分を主語にしたまま、他者と関わることです。
自分で意味を見出し、
自分で引き受け、
そのうえで誰かの役に立つ。
そのとき初めて、
利他は美談ではなく、
誠実な営みとして立ち上がるのだと思います。
私はこれからも、
ボランティアや仕事、
あらゆる関わりの中で、
この姿勢を大切にしていきたいと考えています。
理由を外に置きっぱなしにしないこと。
意味を回収し続けること。
そして、「やらされている感」に気づいたときには、
もう一度、自分で選び直すこと。
それが、私にとっての主体性であり、
私なりの利他のかたちなのだと思っています。
















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