こんにちは。
考えてみてください。諦めることは悪いことですか。
諦めることと無縁な人はいないと思います。
誰しも諦めたことはあるでしょう。
小さな頃の将来の夢、諦めてませんか。
母親におねだりしたおもちゃ付きのお菓子、諦めたことはありませんか。
諦めたこと、諦めつつあること、諦めていなくて目指していること、それぞれ生活していれば誰しもが持っていて、諦めと貫きの間で揺れ動きながら、選択を迫られているのが現実かと思います。
冒頭に諦めは悪いことかとお聞きしましたが答えはどうでしょうか。
諦めたほうがいい事柄もあれば、諦めないほうがいい事柄もあると思います。
良い悪いの基準は何でしょう。
それは自分の解釈、つまり自分の中にある価値観や心の声による評価だと思います。
諦めることは悪いことか
「諦めたら、試合終了だよ。」
某名作マンガの一言です。
一試合の最後まで諦めずに挑戦することが大切だという意味と捉えてますが、
この言葉は確かに諦めるなというメッセージかと思います。
“一試合”を”人生”と言い換えることもできるでしょう。
古い人生観や期待を手放すわけでもなく、人生全体を諦めてしまってはそこで人生終了です。
この場合は諦めることは良いこととは言えませんよね。
あえて諦めること(肯定的な諦め)
ただ、人生は選択の連続です。
何かを選ぶということは他の選択肢を捨てることです。
他の選択肢を諦めて、今があるわけです。
あっちの選択肢を選んでいれば…と過去を悔やむことはその選択肢をきっぱりと諦めていないということです。
もう一度選択肢に上がってくる可能性があることなら、諦めずまた目指すこともできますが、
過去その瞬間の選択についてはその時に限ったことですので、捨てた選択肢に執着しないで諦めることのほうが良い解釈に思います。
これを”あえて諦めること(肯定的に諦めること)”だと思うのです。
過去の選択を肯定して、捨てた選択肢をあえて諦める姿勢が、自分自身を肯定的に捉えられて、生きやすくなるように思います。
私の諦めて良かったこと
私は大学で科学を学び、真理を追求することを学んだがために、ある種の科学信者になっていた部分があると思っています。
人間性や人間関係に対しても科学のアプローチを用いて適切でない一般化をしてしまったり、心理現象を無理に分解し、細分化された要素を分析するような還元的分析を行ってしまったりしていました。
その結果、心は病み、統合失調症を発症してしまったのです。
その後、病気から回復する中で、いくら分析をしようとも、他者のことは究極的にはわかり得ないということに気が付き、人間性や人間関係について科学的アプローチを用いて追求することを諦めたのです。
そのことが予後にとても心が軽くなるいい影響を与えたように思います。
更に科学的アプローチの領域外にあることもあるということを受け入れることで、哲学的アプローチなどの新たな視点を手に入れることができたのです。
それにより、人間性の多様性や曖昧さを受け入れ、普遍的な「正解」ではなく個別の「真理」を探求できるようになったように思います。
意識的に肯定的に諦める。
諦めることを否定せず、その中にある価値を見つけることが、私たちの人生をより豊かにするのではないでしょうか。選択肢を捨てることが恐ろしいことではなく、それによって得られるものを見つけられることが大切なのです。
私たちは、諦めたことが必ずしも失敗ではなく、それが新しい可能性を生み出すきっかけとなることを知っています。
諦めることの中に希望があること、それを見逃さず、肯定的に捉えていく姿勢が、私たちの未来を切り開く鍵なのではないでしょうか。
まとめ
諦めることは、単に挫折や失敗を意味するものではなく、新たな道を切り開くための選択肢である場合もあります。選択肢を手放すことで得られるものや、再び挑戦する機会を生む可能性があるのです。重要なのは、諦めるか否かを自分自身の価値観や目標に基づいて判断し、それを肯定的に受け入れることです。
諦めることが人生の中で避けられないプロセスである以上、それを否定するのではなく、それを受け入れ、新しい視点や可能性を探求することが、私たちの成長と幸福につながるのではないでしょうか。諦めることの先にある未来を見据えて、私たちは前向きに歩み続けていきましょう。
森の民さん コメントありがとうございます! 語り合いの時間、本当に素晴らしいです…