先日、友人の結婚式に出席しました。
晴れやかな空の下、白いドレスに包まれた花嫁が歩く姿に、「幸せのお裾分けだなあ」と微笑みながら拍手を送りました。けれど、その一方で、どこか心の奥がチクリと痛んだのです。
――羨ましさ。
それは、誰かを祝福する気持ちと同時に、静かに心に差し込んでくる影のような感情でした。
式場へ向かう車の中で、私は同行した先輩と語り合いました。
会話は、やがて慈悲心や赦し、そして愛についての話へと発展していきました。
慈悲心とは、苦しんでいる人にそっと寄り添い、その痛みに気づきながら共にあろうとする姿勢。
赦しとは、過ちを犯した相手に対して、怒りや責めの気持ちを手放し、再び関係を結ぼうとする心です。
どちらも、相手の不完全さを前提に生まれる「応答」であるように思いました。
けれど、愛は少し違うと感じたのです。
慈悲や赦しが「相手がいることで立ち上がる態度」だとしたら、愛はもっと根源的な「在り方」に近い。
どんな条件も問わず、ただ相手の存在そのものを肯定し、受け入れる力。
それは、まるで命を育む土壌のようだと思いました。
後日、この話を思い返していたとき、私の中でひとつのイメージが形を成しました。
愛とは、肥沃な土壌なのだと。
その土に根を張ることで、赦しや慈悲という芽が育ち、やがて癒しやつながりという実がなるのです。
愛があるからこそ、赦すことができるし、慈悲を持つこともできます。
そして赦しや慈悲が実を結んだとき、世界との関係は深まり、再び愛へと還っていく。
そんな循環が思い浮かびました。
そのとき、私はふと、反対の風景にも思いを巡らせました。
もし、この土壌が痩せていたら――
もし、愛ではなく、不安や孤独、条件付きの価値観が地面を覆っていたら――
きっと、芽はなかなか出てこないかもしれません。
たとえ芽吹いても、育つ途中で折れてしまったり、根を深く張ることが難しかったりするでしょう。
赦しや慈悲といったものは十分に育たず、代わりに、疑いや比較、自己防衛的な態度が芽を出すかもしれません。
そんな土壌では、心もどこか疲れてしまい、つながることよりも、守ることに力を注いでしまいがちです。
でもそれは誰かのせいではなく、ただ「栄養」と「水」が足りなかっただけなのかもしれません。
だからこそ、私は思うのです。
まずは、自分の土を耕していたい。
誰かに赦しや慈悲を向ける前に、自分の中の土が潤っているかを見つめていたい。
羨ましさを抱くこともある、怒りや寂しさが湧くこともある。
羨ましさや寂しさといった感情に気づいたとき、すぐに否定せず、
その存在を静かに認めてあげること――
それが、私にとって心に水をやるということなのだと思います。
そうして潤った土から、ようやく、小さな芽が顔を出しはじめるのです。
愛という土壌に、
気づきという水を注ぎ、
正直な自己対話とつながりという栄養を与えて、
慈悲や赦しの芽を育てる。
やがて実るのは、癒しや、深いつながり、そして再生の力です。
そして、もし誰かの心の土が今は少し痩せていたとしても、
その人にもまた水と栄養が届くように――
私は、自分の土を耕し続けていきたいと思っています。
癒しやつながりという実が育つためには、赦しや慈悲という芽を育てることが必要です。
そのためにまず、土を整え、水をやり、栄養を与えること――
そんなふうに、今日も静かに、自分の心を耕しています。
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