機械というものは、使えば使うほど摩耗し、劣化していく。
それは避けられない宿命のようなものであり、その宿命に対処するためには、適切なメンテナンスが必要になる。
機械には「完成形」が存在する。製造され、一定の性能を備えたとき、それは一つの完成とされる。
そこから先は、メンテナンスを繰り返しながら、徐々に劣化と向き合っていく。
そして、あるとき寿命を迎え、役目を終えていく。
機械の一生は、「完成」から始まると言ってもいいのかもしれない。
では、人間はどうだろうか。
人もまた、時間とともに老い、やがて死という終わりを迎える存在だ。
肉体という意味では、私たちはある年齢を境に成長を止め、老化というプロセスへと移行していく。
その意味では、人もまた「劣化していく存在」と言えるのかもしれない。
しかし、私たちにはもう一つの側面がある。
心や精神という、目に見えないが確かに存在する領域だ。
ここには、「完成形」があるのだろうか。
「成人」という言葉がある。
それは法的・社会的にはひとつの区切りであり、「人として一人前になった」とされる節目だ。
けれども、本当に「人として完成した」と言えるのだろうか。
たしかに身体的な成長は止まるかもしれない。
しかし、心や精神はどうだろう。
それらは年齢とは関係なく、むしろ年齢を重ねるからこそ、さらに深まり、変化し、育まれていくものなのではないか。
「悟り」という言葉がある。
心の完成形として、それが語られることもある。
だが、それははっきりとした形を持たない。
実体としての像はなく、むしろ抽象的な、追い求める姿勢そのものが悟りの本質であるようにも思う。
私たちは、とかく「完成形」に憧れたり、そこに囚われたりする。
「こうなれば理想」「こうであるべきだ」
そんな完成の像に向かって努力し、評価し、他人と比較し、時に自らを追い詰めてしまう。
けれど、心や精神の領域において、本当に「完成」などあるのだろうか。
あるとすれば、それは終わりのときに振り返って見えるものではないだろうか。
「今この瞬間に成長し続けている」――その歩みそのものにこそ、人間らしさが宿るように思う。
だから私は、完成を目指すのではなく、変化し、揺らぎながら、成長し続けていきたい。
たとえ心が折れそうな時があっても、それもまた成長の過程だと受けとめたい。
完成という像に縛られるのではなく、今ここでの在り方を丁寧に見つめながら、心とともに生きていきたい。
サトシさん コメントありがとうございます。 こちらこそいつもありがとうございます…