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「人は考える葦である」と私の現在地~

人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在である。だが、それは「考える葦」である。
――ブレーズ・パスカル『パンセ』

この言葉を読んだとき、私は深く心を動かされました。
人は、確かに脆い存在です。自然の力の前では非力で、病や不安にも簡単に打ちのめされてしまいます。けれど、そんな私たちにも、「考える」という力が与えられています。そのことが、人間の尊厳を支えているのだとパスカルは語ります。

しかし私は、この「考える」という営みを“人間の義務”と呼ぶとき、その“義務”とは何なのだろうかと疑問を抱きます。
それは誰かから課された義務ではないように思います。社会的に「よく考えなさい」と言われる場面はたしかにありますが、もっと根源的なところで、私たちは自ら考えずにはいられない存在なのではないでしょうか。

私にとって、「考えること」とは、能動的な行為です。やらされるものではなく、自分で選び取っていくもの。放棄してはいけないけれど、強制されるのではなく、自らの意思で引き受けるべきもの。いわば、それは“人間として生きる”ことそのものに近いと感じています。

私は、考え悩みすぎて心を病み、統合失調症を発症しました。
悩みや不安が大きくなりすぎて、自分を見失ってしまったのです。あの頃、私は「もう考えることなんてやめてしまいたい」と思ったこともありました。
けれど、それでもなお、私は今も考え続けています。というより、考えることを手放さなかったからこそ、私は自分を取り戻すことができたのだと思います。

考えることには、自己を肯定し、よりよく生きようとする力があると私は信じています。
自分がなぜ苦しんでいるのか。どこへ向かって生きていきたいのか。
こうした問いかけを重ねることは、すぐに答えが出るものではありませんが、自分の輪郭をたしかめる営みになります。

ただ一方で、再び心を病むかもしれないという不安は、いつも隣にあります。
いったん深く傷ついた心は、再び脆さを見せることがあります。
だからこそ、考えることには注意深さが必要です。
一歩間違えば、思考は自分を追い詰めてしまうこともあるからです。

けれど、そうであっても、私はやはり考えることをあきらめたくありません。
人は誰でも、日々の中で無意識に「考える」という営みを行っています。
それは選択であり、意味づけであり、生きることそのものだと思います。

病を経験した私にとって、「再び考えること」とは、単なる日常への復帰ではありません。
それは「もう一度、自分の足で立とうとする」という、内なる決意でもあります。

パスカルの言う「考える葦」とは、強さや賢さを意味するのではなく、脆さを知りながらも、自ら問い続けようとする姿のことなのだと思います。

私はこれからも、考えることをあきらめずに生きていきたいです。
それが、私なりの「人間としての尊厳」を守ることだと信じているからです。

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