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構造を設計するということ ――人間の身体に学ぶ、組織のあり方

神に設計された構造体としての人間

「人間の身体は、神に設計された構造体である」─そんなふうに思うことがあります。

私たちは、ただ筋肉と骨と臓器の集合体ではありません。それぞれの部位がどこにあるのか、どのようにつながっているのか、どんな順序で働くのか。そうした“構造”によって、はじめて命は命として動き出します。
そこには偶然ではなく、あまりにも緻密な秩序が感じられます。

もし神が私たちの身体を設計したのだとしたら…

人が「構造を設計する」という行為には、ほんの少しだけ、創造のまなざしが重なるのかもしれません。

感覚器官を失った身体のような組織

構造のない組織というのは、感覚器官を失った身体のようなものです。
たとえば、脳が「手を動かせ」と命じても、神経がつながっていなければ指先は動きません。指先が熱いものに触れたとしても、その痛みが脳に届かなければ、私たちは反応することができません。

同じように、構造のない組織では、誰かが意思を示しても、それが末端まで伝わらなかったり、逆に現場で起こっていることが上層にまったく届かなかったりします。
判断と行動がちぐはぐになり、やがて組織の中に無力感や混乱が広がっていきます。

自己調整する身体のような組織

一方で、構造のある組織というのは、自己調整できる身体のようなものです。
脳から出た指令が神経を通って筋肉に届き、手足が動く。
そして、外の変化を感知すれば、体温を調節し、傷を修復し、時にはじっと静かに休むことさえ選びます。

組織もまた、構造をもつことで、ただ一方向に命令を流すだけでなく、互いに連携し合い、環境に適応し、自らを調整しながら進んでいけるようになるのです。

命を流れさせる“器”としての構造

構造を設計するというのは、冷たい枠組みをつくることではないと感じます。
むしろ、それは命を流れさせるための“器”をつくるようなものです。

血液が流れるには、血管が必要です。
情報が伝わるには、神経のような経路が必要です。
どんなにやる気のある人が集まっていても、それぞれの力がバラバラに動いていては、全体としての力にはなりません。
けれども、構造があることで、その力が一つの方向へと結びついていく。

それはまるで、無数の細胞が結びついて、ひとつの命として働き出す身体のようです。

構造は対話と共生のフレームでもある

そして何より、身体がそうであるように、構造は一方的な支配ではありません。 脳がすべてをコントロールしているように見えて、実は腸の働きが脳に影響を与えることもありますし、免疫系が異常を知らせることで、身体の行動が変わることもあります。

組織もまた、上から下へ命令を下すだけではなく、下からの声や反応が、上を揺り動かすような関係性を持つことができます。
構造は、命令のためのものではなく、対話と共生のためのフレームでもあると感じます。

組織に命を吹き込むということ

私は思います。
構造を設計するというのは、ただ仕組みをつくることではありません。
それは、その組織にどんな“命”を吹き込みたいか、その命をどう育て、どう守り、どう未来へつなげていきたいか─そうした思いと共に行う行為なのだと思います。

私たちの身体のように、緻密で、柔軟で、しなやかで、そして生き生きとした組織。
そんな構造を描ける人間でありたいと、私は願っています。

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