「出来ると思うことしか、人は出来ない。」
そんな風に感じる瞬間があります。
もちろん、本当は「やってみたら出来た」ということも少なくありません。けれど、「出来る」と思えていないうちは、なかなか最初の一歩が踏み出せない。逆に、「出来るかもしれない」と思えたとたん、ふっと心が軽くなり、体が自然と動き出す。そんな経験はないでしょうか。
私たちの暮らしは、「わからないこと」で満ちています。やってみなければ分からないこと、やってみても分からないことさえあるかもしれません。未知と不確かさに囲まれながら、私たちは日々、進むか立ち止まるかの選択を迫られています。
そのとき、どう立ち振る舞うべきなのでしょうか。
「分からないなら、やらない」と考える。これは、とても慎重で、ある意味では堅実な姿勢です。失敗のリスクを避け、確実な道を選ぶという選択には、大きな意味があります。
一方で、「もしかしたら出来るかもしれない」と思って、未知に向かって一歩を踏み出す。これは勇気のいることですが、その一歩によって初めて見えてくる風景もあるはずです。
私は、どちらか一方を選ぶべきだとは思いません。重要なのは、希望の有無です。「やってみたい」「出来るかもしれない」という小さな希望の芽を、大切にしてあげること。その希望が、心を動かす原動力になるのです。
とはいえ、無理に突っ走る必要はありません。やってみたものの、どうにも難しいこともあるでしょう。「希望があったはずなのに」と落ち込むこともあるかもしれません。
そんなとき、ひとつの考え方として、ベイズの主観確率という考え方が役に立つかもしれません。
ベイズの主観確率とは、「確率は主観的な信念の強さを表すものであり、新たな情報を得るたびに、その信念を更新していく」という考え方です。たとえば、「この道を進めばうまくいくかもしれない」と思って歩き出したとき、道中でさまざまな情報が入ってきます。その情報をもとに「やっぱりやめておこう」と判断することもあれば、「思ったよりいけそうだ」と続ける判断をすることもある。
大切なのは、最初の確信にしがみつくことではなく、進みながら考え、必要なら立ち止まり、あるいは別の道を選ぶ柔軟さです。そしてその柔軟さは、最初の「希望」によって支えられているように思うのです。
だからこそ私は、
希望の向く方向へ、一歩踏み出すことを、大切にしたいと感じています。
その一歩が、世界の見え方を少し変えてくれるかもしれません。
そしてその変化が、また次の希望を生み出してくれるかもしれないからです。
サトシさん コメントありがとうございます。 こちらこそいつもありがとうございます…