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意味は自分の味付け次第

かつての私は、「この世界のすべてには意味がある」と強く信じていました。道ですれ違った人の表情、ふと目に入った数字や言葉、偶然耳にした音楽。そのすべてが、自分に向けられた“何かのサイン”のように思えてならなかったのです。

今振り返れば、それは関係妄想という心の状態でした。意味のあるつながりが実際以上に広がって感じられる、そうした体験の中で、私はいつも何かに導かれ、試されているような気がしていました。

ですが、そこから少しずつ回復していく中で、私は「意味」とは必ずしも最初からそこにあるものではないことに気づいていきました。意味とは、誰かが、あるいは自分自身が、後から「意図的に」与えるものなのだと。

たとえば、道端にぽつんと置かれた一本のコーン。そこにはさまざまな可能性があります。もしかしたら、道路の陥没を知らせるための注意喚起かもしれません。あるいは、マラソン大会の折り返し地点を示す目印かもしれない。つまり、物そのものに「意味」が備わっているわけではなく、そこに意味を与える人の意図によって、意味は変わってくるのです。

この視点は、自分自身の物語を振り返るときにも、大切なヒントになるように思います。私たち一人ひとりには、それぞれのナラティブ(語り・物語)があります。たとえば、ある時期は調子がすこぶる良かった、またある時期はすこぶる悪かった……そんなふうに、過去の出来事を思い出すことがあるでしょう。

もちろん、「調子の良し悪し」自体も、ある種の評価にすぎないとも言えますが、ここでは一旦そのことは脇に置いておきましょう。私が今、注目したいのは、その出来事に「どんな意味付けをしているか」という点です。

たとえば、いじめられた時期に「人生を変えてしまった出来事」として大きな意味を与えていれば、その思いは今の自分に影響を与えるかもしれません。逆に、「あの頃はよかった」と過去を美化していれば、現在とのギャップに苦しむこともあるでしょう。

でも、そうした過去のできごとに対して、執着ではなく、自分なりに納得できる意味付けができたとしたらどうでしょうか。調子が良かったときも、悪かったときも、「それがあったから、今の自分がいる」と自然に受けとめられるようになれば、その過去は今を支える“糧”になってくれるように思うのです。

意味は、後から自分で味付けできるものです。それも一度きりではなく、何度でも、柔軟に、丁寧に。だからこそ、過去を見つめ直すときには、「どんな味付けをしたら、自分にとってちょうどいいだろう?」と、ゆっくり問いかけてみてほしいのです。

人生の味は、自分で決められる。そんな自由と優しさを、これからも忘れずにいたいと思います。

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