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ギブとテイクのあいだで

ギブとテイクのあいだで

尽くすという態度について

人に尽くすことは、尽くされるために必要なのでしょうか。
この問いについて、少し立ち止まって考えてみたいと思います。

人は、ギブから人生を始めるわけではありません。
人生は、明らかにテイクから始まります。

 赤ん坊は、誰かに与えられることで生きています。
そこに交換はなく、 ただ受け取ることだけがあります。

やがて人は成長し、
誰かが喜んでくれた経験や、 役に立てたという実感を通して、
与えることにも喜びがあると学んでいきます。
ギブは本能ではなく、 経験を通して身につく感覚なのだと思います。

初めて出会った人に対して、
「何かを与えよう」とか「何かをもらおう」とか、
そんなことを意識的に考えることは、 実際にはあまりありません。
出会いはもっと自然で、 偶然に近いものだからです。

仕事相手として出会うのか、 恋人候補として出会うのか。
その出会い方によって、 こちらの心構えや距離感が変わるのは、
きっと自然なことだと思います。

ただ、関係が始まり、
「この関係を良くしていきたい」と思った瞬間から、
どんな関係であっても、 目指すのは win-win の関係になるのではないでしょうか。

ギブとテイクの境界

そのときに私が大切だと思うのは、 win-win を願うことと、 テイカーとして関係に入ることは、 決して同じではない、という点です。

関係を良くしたいと思いながら、 「自分は何を得られるだろう」と考えるところから始めてしまうと、 その姿勢は、言葉にしなくても相手に伝わってしまいます。
態度や間の取り方、 言葉の選び方に、 にじみ出てしまうものだからです。

だから私は、 関係を育てたいと願うなら、 テイクから入るのはやはり違うのではないかと感じています。関係の入口では実際は意識しないかもしれませんが、そういう姿勢になっていないかを気をつけたいと思いました。

とはいえ、 「私はあなたに何を与えられます」と 言葉で示す必要はないと思っています。
それは宣言するものではなく、 日々の振る舞いや姿勢の中に、 自然と現れるものだからです。

たとえば、 「〜してあげるよ」という言葉。
それが相手の求めているものでなければ、たとえ善意であっても、それはギブとは言えず、 自己満足に終わってしまいます。

逆に、 自分がやりたいからすることや、 自分が満たされるから差し出す行為なら、
「〜させていただく」と、 自分がテイクしている側だと自覚しておくほうが誠実だと感じています。

同じ行動であっても、 ギブかテイクかは、 行為そのものでは決まりません。
自分がどう認識しているか、 どんな姿勢で向き合っているかによって、
その意味は簡単に変わってしまいます。

だからこそ私は、「自分はギブしている」という感覚を、
安易に信じすぎないようにしたいのです。
尽くしているつもりで、 相手から何かを奪っていないか。
善意のつもりで、相手を自分の満足のために使ってしまっていないか。

考え続けた先にある実感

ギブとテイクは、紙一重です。
その境界は外からは見えにくく、自分自身にしか確かめられません。
だから私は、自分の内側の認識を問い続けながら、
人との関係を大切にしていきたいと思っています。

けれど、ふと気づくのです。

 そうやってあれこれと頭で考え、「正しいギブ」を模索している自分をよそに 心はもっとシンプルに、損得なんてどうでもいいと思える相手と、ただ笑い合っている時間があることに。

結局、いちばん純粋なギブとは、
「何を与えるか」と悩むことすら忘れてしまうような、
そんな静かな時間の中にこそ、宿っているのかもしれません。

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