ムダという余白について
最短距離と回り道のあいだ
最短距離を行くということ。
回り道をするということ。
私たちはいつの間にか、効率や合理性を基準に物事を判断するようになります。
意味のあることを選び、意味のないことはしない。
時間も労力も有限なのだから、それは自然な態度なのかもしれません。
意味を付するのは自分です。
意味がないと思えば、それはない。
無駄も同じで、無駄だと思った瞬間に、それは役に立たないものになります。
効果がない。
効用がない。
余計なことだと切り捨てられてしまいます。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
私はときどき、そう思います。
ムダを排除すると人生は窮屈になる
私の感覚として、人生には確かに「無駄だな」と感じることがあります。
何の意味も見出せず、何の役に立つのかもわからない時間です。
そういうものを否定して、なくさなければいけないと躍起になると、人生は一気に窮屈になります。
息をする隙間がなくなるような感覚です。
暇な時間は、その代表かもしれません。
何も生み出していない時間。
何かを達成しているわけでもない時間です。
でも、その暇な時間を「自分を整えるために必要な時間だ」と思えたとき、それは意味のある時間に変わります。
結局、意味があるかどうかは、出来事そのものよりも、どこに意識を置くかで決まるのだと思います。
回り道をしていると思えば、無駄は増えます。
無駄なんて何もないと思えば、世界は少し違って見えてきます。
すべてに意味を見出そうとした時期
ただ、私は一時期、「すべてに意味がある」と思いすぎていたことがあります。
人の表情や仕草、ちょっとした雰囲気の変化。
自然現象や、到底人の能力ではわかりえない出来事にまで、何かしらの意味を見出そうとしていました。
そうすると、意識をすべてのことに向け続けなければならなくなります。
人と過ごしているときは、何一つ見逃してはいけない気がしてきます。
それが、その人とうまく付き合うために必要なことだと、どこかで思い込んでしまうからです。
しかし、その状態は、今振り返ると、相当な負荷がかかっていたと思います。
意識を休ませる場所がありませんでした。
意識というものは、集中と発散のバランスが取れてこそ、うまく機能します。
小さな絵を凝視して、特徴を読み取ることはできます。
けれど、ずっと凝視し続けていたら、どんな絵でも疲れてしまいます。
意味を見逃さないように、世界を凝視し続けることも、それとよく似ている気がします。
ムダと意味のあいだにある余白
話が少し逸れましたが、
私は、ムダというものは、その人の中にある大切な余白なのだと思うようになりました。
ムダと意味のあることのあいだには、はっきりした境界線はありません。
そこには、ゆるやかなグラデーションがあります。
無駄だと思っていたことが、あとから振り返ると意味のある時間だったと気づくこともあります。
逆に、意味があると思って必死に向き合っていたものが、意識を向けすぎることで、疲れの原因になっていたと気づくこともあります。
どちらも、特別なことではありません。
ムダとは、最初から価値のないものなのではなく、
「今は意味づけしなくてもいい場所」
「意識を緩めても許される場所」
なのかもしれません。
そう思えるようになってから、
私は少しだけ、回り道を許せるようになった気がしています。

















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