醍醐味という言葉の由来を知って
「醍醐味」という言葉が、仏教の用語であることを最近知りました。
何気なく使ってきた言葉でしたが、その背景を知ったとき、私は少し立ち止まりました。
仏教では、牛乳が精製されていく過程を五つの段階で表します。
乳味、酪味、生酥味、熟酥味、そして醍醐味。
乳から始まり、発酵し、精製され、最後に最も純粋で滋味深い「醍醐」へと至る流れです。
この五味は、単なる食べ物の話ではなく、学びや人生、そして人の成熟そのものを表すたとえだと言われています。
一足飛びに醍醐味へ至ることはなく、必ず途中の段階を経る。
そう考えたとき、この五味の話は、私自身の人生とも深く重なっているように感じました。
大きく揺らいだ人生の味
私の人生において、統合失調症の発症は、間違いなく大きな転機でした。
それまで保たれていた人生のバランスは一気に崩れ、味わいで言えば、大きく傾いてしまった感覚があります。
あと一歩のところで、元の場所に戻れなくなっていたのではないかと、今でも思うことがあります。
感情は鈍くなり、思考はまとまらず、身体的な体力も精神的な余裕も、気づけば底をついていました。
それまで当たり前だと思っていたものが、一つひとつ失われていくような時間でした。
バランスを取り戻すという道のり
そこから再びバランスを取り戻すまでの道のりは、決して簡単なものではありませんでした。
失った感情を少しずつ感じ直し、身体的な体力と精神的な力を、ほとんどゼロの状態から積み上げ直していきました。
焦っても進めず、立ち止まることも多く、後戻りしたように感じる日もありました。
それでも、わずかな変化や回復を信じて、ただ続けるしかありませんでした。
今振り返ると、その過程そのものが、私の人生に新しい味を与えてくれていたのだと思います。
あの経験が、今の私をつくっている
あのときの発症が、結果として私を「私」にしてくれた。
そう感じています。
もしあの経験がなければ、今の私は存在していません。
もちろん、病気になってよかったと言いたいわけではありません。
その言葉が持つ軽さや危うさも、私は理解しているつもりです。
だからこそ、言葉を選ばず、そのまま受け取ってほしいと思います。
あの経験が、今の私の人生の味を出しています。
苦味や渋み、甘さや深みが混ざり合った、簡単には説明できない味です。
味わいを深め続けるということ
今の私は、人生の五段階のうち、どこにいるのか分かりません。
乳味なのか、酪味なのか、それともまだ途中なのか。
あるいは、一瞬だけ醍醐に触れて、また戻っているのかもしれません。
ただ一つ言えるのは、私はこれからも、その時々の味を否定せず、ひたむきに深めていきたいということです。
急がず、比べず、完成を急がずに。
人生は、最初から醍醐味である必要はありません。
揺れ、傾き、立て直しながら、少しずつ味わいが変わっていく。
その過程そのものが、私にとっての人生なのだと思っています。
















ころたん、お久しぶり、でしょうか。
ころたんは、すでに渋みや深みをたたえていますよ。
かつて、生まれながらに「醍醐」の人がいました。
会社の大先輩で、醍醐さんという名の人でした。
それはそれは落ち着きがあり諦観しているような人でした。
今思えば、その人の年齢に私が近づいているような気が。