あるとき、ふと耳にした会話の中に、気になる言葉がありました。
「〜してあげなくちゃいけない」「そうしないと、生きていけないかもしれない」
そんなふうな言い回しだったと思います。
支援の現場では、よくあるやりとりなのかもしれません。
けれど、そのとき私は、胸の奥に静かなざわめきを覚えました。
“してあげる”“してあげなくては”――
その言葉には、思いやりや責任感が込められていたはずです。
それでもどこかに、「力の向き」が一方通行になっているような感覚がありました。
支援という“光”が生む影
「大丈夫?」という言葉もまた、やさしさの表れとして日常にあふれています。
相手を気づかう温かな言葉。けれど、それが繰り返されるうちに、こんな思いが心の中に芽生えることがあります。
――「私は、本当に大丈夫じゃない人なのだろうか?」
光のつもりで差し出した支援が、いつのまにか相手の自己信頼に影を落としてしまう。
それは支援の難しさであり、同時にとても人間的なすれ違いだとも思います。
陰陽思想に見る、支援のバランス
東洋の陰陽思想では、光と影、動と静、強さと弱さ――どちらか一方では成り立たない世界のあり方が語られます。
この視点は、支援のあり方を考えるうえでも、大切なヒントになるように感じます。
「してあげる」や「声をかける」といった支援は、陽の力。
一方で、「待つ」「見守る」「委ねる」といった支援は、陰の力。
どちらが正しいということではなく、そのバランスを調えながら支援が循環していくことが、関係の健やかさを支えているように思います。
支援とは、“整えようとする姿勢”そのもの
相手の沈黙を急かさず、必要なときには手を差し伸べ、必要でないときにはそっと見守る。
そうした揺らぎのある支援こそが、人の力を育むのではないでしょうか。
ときには「信じて任せる」こともまた、深い支援になります。
光だけを当てるのではなく、その人の影も尊重するような関わり。
それは、目立たずとも、確かな支えになるはずです。
自分自身への支援にも、陰陽は宿る
この構造は、他者への支援だけではありません。
私たちは、自分自身に対してもまた、支援のあり方を問われています。
「頑張らなきゃ」と励ますとき、自分に陽のエネルギーを注いでいます。
一方で、「今日は休もう」と許すときには、陰の力が働いています。
どちらかに偏ると、自己との関係もまた、息苦しいものになってしまいます。
自分に対しても、今どちらの力が必要なのかを見つめ、微調整していくこと。
それが、自分を支えるということなのかもしれません。
終わりに:揺らぎの中にある支援
支援とは、「する・される」といった固定された関係ではなく、
そのつど変化する揺らぎのなかで、関係を育てていく営みだと感じます。
今日は誰かを支える日でも、明日は自分が支えられる日かもしれない。
その循環を信じて、陰と陽のあいだを行き来すること。
それこそが、私たちにできるもっとも誠実な支援のかたちなのではないでしょうか。
mayoiさん コメント頂きとっても嬉しいです。 関係性の中で、お互いが自分も相…