「できるだけ意識的に生きたい」と思うことがあります。
気づくこと、考えること、選ぶこと――それらを大切にすることが、自分らしくあることにつながる気がして。
でも、いつでも意識を張り詰めていられるほど、人間は機械じゃありません。
むしろ、私たちが生きている時間の大半は、無意識のうちに選び、動き、反応しているようにも感じます。
そう考えたとき、ふと「無為の為(むいのい)」という言葉が腑に落ちてきました。
無為の為とは何か
「無為の為」は、老子の言葉。
直訳すれば「なにもしないことを、意図してする」というような、ちょっと不思議な響きを持っています。
でもこれは、単なる「怠け」や「放棄」ではなくて――
「自然の流れに逆らわず、あえて自分をコントロールしすぎないことで、最も調和のとれた働きが生まれる」
そんな深い生き方の態度を指しています。
たとえば、
・子どもの成長に過剰に口出しせず、見守ることで育まれる力
・人間関係の中で、無理に相手を変えようとせず、自分のあり方を整えることで生まれる信頼
・創作や表現の場で、あえて手を止めて、言葉や発想が湧くのを待つ姿勢
どれも、「していないようで、実はしている」。
意識の働きが少ないようでいて、深いところで選ばれている“態度”です。
無意識を洗練させるという視点
私たちが四六時中、意識的に判断しているわけではない。
だからこそ、その“無意識”の部分が、人生の質に大きく関わってくるのではないでしょうか。
日々の選択や反応が、どこか柔らかく、他者や自然と調和している。
そんな無意識が育っていたなら、たとえ意識が届かない時間でも、自分らしく穏やかに生きていける気がします。
そして、その無意識は、「何を積み重ねてきたか」によって育っていく。
過剰にコントロールするのではなく、日々の姿勢や心の向け方を通して、知らず知らずに形成されていくのです。
無為の為は、意識を休ませる智慧でもある
意識の力には限りがあります。
疲れているとき、余裕がないとき、つい反射的に動いてしまうこともある。
そんなときに、「無為の為」の考え方は、少しだけ自分をゆるすヒントになります。
「うまくやろう」「良くしよう」とがんばる意識も大切。
でも、そればかりでは続かない。
むしろ、手を緩めたときにこそ、無意識の中の“質”が自然とにじみ出る。
だからこそ私は、「意識を休ませること」も、大切な実践だと思うのです。
そして、日々の中で何を見て、どんな言葉にふれ、どんな人と交わるか――そうしたひとつひとつが、無意識を洗練させていく材料になる。
おわりに:意識の外側でも、歩みを止めない
無為の為とは、
「何もしないように見えて、深いところで“選び続けている”あり方」。
意識が届かないところでも、自分なりの歩みを重ねていけるように。
そのためにこそ、意識的な学びと、無意識の涵養(かんよう)を、両方大切にしていきたいと思います。
今日は考えすぎたな、と思う日は、
そっと空を見上げてみよう。
きっと、そこにも「無為の為」がある。
mayoiさん コメント頂きとっても嬉しいです。 関係性の中で、お互いが自分も相…