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立ち止まる力 伝える言葉、響く思索

通用するとは、どういうことか

「通用する」とは、どういうことなのだろう。

自分の考えが、誰かに届くとはどういうことか。
伝えるということは、相手を変えることなのだろうか。
そんな問いが、私の中にくり返し立ち上がってきます。

そんなとき、ある言葉に出会いました。
「通用する哲学とは、人を変えるものでなく、人を立ち止まらせるものである。」

この言葉に触れたとき、私はどこかで安堵しました。
人の心を動かすとは、必ずしもその人を説得したり、変化させたりすることではないのだと。
ただ、ほんの一瞬、その人の歩みを止めて、「あれ?」と何かに気づいてもらうこと――それこそが、言葉の持つもっとも深く、やさしい力なのではないかと思ったのです。

 

思索を伝えるときの不安と誠実さ

私はときどき、自分の考えが「通用するだろうか」と不安になります。
人に話すとき、文章を書くとき、それが独りよがりに見えないか、自信過剰ではないかと、自問自答するのです。
とくに哲学めいた話になればなるほど、答えの出ない問いに自分なりの輪郭を与えようとすればするほど、その不安は大きくなります。
けれど、それでもなお、「誰かの思考の流れに、さざ波のような揺らぎを与えること」ができたなら、それは“通用する”ということなのだと思えるようになりました。

 

哲学の本質は、問いを生み出すこと

考えるという行為は、すぐに答えを出すこととは異なります。
むしろ、いったん立ち止まり、「そもそも、それは本当なのか?」と問い直す力です。
そして本来、哲学とはその問いを生み出す言葉であり、人を変えようとする前に、人の中に静けさやまなざしをもたらすものではないでしょうか。

 

「説得」よりも「余白」に残る言葉を

私たちは「説得力」を求めすぎているのかもしれません。
論理が通っていて、実例があり、結論が明快であればあるほど安心します。
けれど、本当に深く響く言葉とは、そうした「納得」ではなく、「余白」に残るものだと感じます。
すぐに答えが出るものではなく、でもどこか気にかかって、心の中で何度も思い返してしまう。
そういった言葉にこそ、真の通用性が宿っているのかもしれません。

 

哲学を伝えるということ

私はこれからも、誰かを変えるためではなく、
誰かの心に静かな問いが芽生えるような言葉を探していきたいと思います。
そしてそれを丁寧に届けることで、その人が少しだけ立ち止まり、自分の歩幅で何かを見つめ直すような時間が生まれるのであれば、
それこそが、私の思索が「通用した」証なのだと感じています。

 

変えるためでなく、差し出すために

変えようとしなくてもいいのです。
変わるかどうかは、相手の中で起こることです。
私たちにできるのは、ただ丁寧に、自分の見ている風景を差し出すこと。
そして、その風景の前で、相手がふと立ち止まってくれるのを待つこと。

それが、伝える哲学の本質なのだと、私は信じています。

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