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握りしめる心、ひらいていく心

握りしめる心、ひらいていく心

ある人がこう言いました。「執着がなくなってしまったら、成長や改善が止まってしまうのではないか」と。
その言葉に、私はなるほどと思いました。たしかに、人が何かを求めて前に進むとき、そこには「執着」に似た力が働いています。「もっと良くなりたい」「理解したい」「成し遂げたい」――その思いが、人を動かす原動力になっているのだと思います。
けれど、私は同時に違和感も覚えました。自己成長への欲求と執着は、どこか違う気がしたのです。ウェルビーイング――より良く生きることへの願いは、自分や他者を縛るものではなく、むしろ心をひらき、軽やかにする力のように思えるのです。

「執」という字が教えてくれること

「執」という字には、もともと“強い気持ちで何かを握りしめる”ようなニュアンスがあります。誰かの言葉、ある出来事、自分の中のこだわり──そうしたものを、心のどこかでぎゅっと抱きしめて離さない感覚です。

ただ、この「握りしめる」という行為には光と影があります。大切なものを守ったり、集中力や責任感につながったりする、前向きな力でもあります。一方で、握りしめる力が強すぎると、指がこわばり、身動きが取れなくなってしまう。これが、私たちがよく口にする「執着」という状態です。

つまり「執」という字は、最初から悪いわけでも、良いわけでもありません。何かをしっかり持とうとする心の姿勢そのものを表していて、そのバランスが崩れたときにだけ苦しさが生まれるのです。握るのか、離すのか──その手加減が、私たちの心を自由にも、不自由にもします。

「執り行う」と「執着する」の違い

同じ「執」でも、「執り行う」と「執着する」では、意味がまったく異なります。「執り行う」は、物事を丁寧に受け取り、責任をもって遂行すること。握ったものを“動かす”力がここにはあります。

一方の「執着する」は、握ったものを“離せない”状態を指します。つまり、手を握る行為は同じでも、前者は流れを生み、後者は流れを止めてしまうのです。

執とは、本来「つかむ」ことそのものを表します。そこに込められた心の向き方――それが、執が「集中」にも「執着」にもなる分かれ道なのだと思います。

手放すことではなく、握り方を変えること

私は、執着をなくすことは「何もかもを手放すこと」ではないと思っています。むしろ大切なのは、握りしめる心を、ひらいていく心へと変えていくことです。

手を少しゆるめてみると、そこに風が通い、光が差し込みます。大切なものは、強く握らなくても、ちゃんとそこに在り続けてくれることを、人はいつか知るのだと思います。

「執」は、握ることで支える力にもなります。ですから、手をひらき、包み込むように持つこと。そのとき、「執」は“囚われ”ではなく、“生きる姿勢”へと変わります。

おわりに

成長を望む心と、執着する心は、とても近いところにあります。けれど、その違いは「心の自由さ」にあるのではないでしょうか。

「こうでなければ」と握りしめた手を、「こうあれたらいい」とひらくとき、世界は少しやさしく見えてきます。

執着を手放すとは、自分を責めることでも、諦めることでもありません。それは――大切なものを、やさしく支え直すことだと、私は思います。

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