先日、ある対話の場で、「人は自分の人生の役を演じているのではないか」という話になりました。

病気を抱えている自分も含めて、誰かに決められた役を受け身で演じるのではなく、自分で主導権を持って演じていく。

そんな話から、対話は少しずつ「演じること」と「自然体でいること」へと広がっていきました。

自分を一つの役に固定しない

私は、以前見たドラマのことを思い出しました。

普段はダンディーな男性という印象の強い俳優が、物語の中で女子高生の心を持つ父親を演じていました。見た目は大人の男性なのに、仕草や話し方から女子高生らしさが伝わってきて、当時の私は大きな衝撃を受けました。

それは、単に演技が上手だったからだけではないのでしょう。

もしその俳優が、「自分はダンディーな男性でなければならない」と自分自身を固定していたなら、あの役を引き受け、表現することは難しかったのかもしれません。

人は、自分が思っているよりも多くの役を持っています。

仕事をしている自分。

家族と過ごす自分。

友人と話す自分。

誰かを支える自分。

助けを求める自分。

病気とともに生きる自分。

そのどれか一つだけが「本当の自分」なのではなく、どの自分も、そのときの関係や状況の中に現れる自分なのだと思います。

精神疾患の当事者も、「病気の人」という役だけに自分を固定する必要はありません。

病気を抱えた自分も一つの自分ではありますが、それが自分のすべてではない。

働く自分、遊ぶ自分、誰かを笑わせる自分、格好をつける自分、失敗する自分。さまざまな自分を、その都度演じながら生きていってよいのだと思います。

演じることは、不自然なことなのか

一方で、対話の中では「自然体でいたい」という言葉も出てきました。

人に合わせて役割を演じることが必要な場面はあります。

介護や福祉、接客や教育など、人と関わる仕事では、相手に合わせて表情や言葉を選ぶことがあります。自分の感情をそのままぶつけるのではなく、相手が安心できる自分をつくることも、仕事の大切な一部です。

しかし、役をつくり続けることには疲れも伴います。

だからこそ、ときには何も意識せず、自然体でいられる場所が必要になります。

けれど、ここで新たな問いが生まれました。

そもそも、自然体とは何なのでしょう。

人に合わせて振る舞っている自分は、偽物なのでしょうか。

好きな人の前で、少し格好よく見せようとする自分。

仕事で、相手に安心してもらえるように穏やかに振る舞う自分。

初対面の人の前で、普段より丁寧に話す自分。

それらは確かに、意識してつくっている自分です。

しかし、それもまた、自分の中から生まれた振る舞いです。

「この人に安心してほしい」

「よく思われたい」

「関係を大切にしたい」

そんな気持ちがあるからこそ、その役を演じている。

そう考えると、演じている自分もまた、自然な自分の一部なのかもしれません。

自然体とは、何もしないことではない

私はこれまで、自然体とは、力を抜いて何もつくらずにいる状態だと思っていました。

けれども、今回の対話を通じて、少し違う捉え方が生まれました。

自然体とは、役を演じていない状態だけを指すのではない。

自分がその役を演じていることに、自分自身が無理なく居合わせている状態なのではないか。

人はいつでも、何らかの場や関係の中にいます。

完全に誰の目も意識せず、何の役割も持たない自分というものは、もしかすると存在しないのかもしれません。

大切なのは、演じているか、演じていないかではなく、その自分にどのような感覚を抱いているかです。

同じ役でも、楽しく演じられる日があります。

一方で、同じ役を続けることが、苦しくなる日もあります。

昨日までは自然にできていたことが、今日は重たく感じられることもあります。

自然体とは、固定された一つの姿ではなく、その時々の自分の感覚に耳を澄ませながら、役との距離を調整している状態なのだと思います。

演じている自分に納得できるか

対話は、やがて「納得」という言葉へと進んでいきました。

演じている自分に納得できていれば、それは自然なのではないか。

反対に、演じている自分に違和感があり、納得できていないとき、その役は自分にとって不自然なものになるのではないか。

この考えには、私も深く共感しました。

納得とは、単に「仕方がない」と諦めることではありません。

自分がなぜその役を引き受けているのか。

何を大切にしたくて、そのように振る舞っているのか。

その役を続けることが、自分の人生とどのようにつながっているのか。

それらが自分の中で腑に落ちたとき、人は自分の選択に納得できるのだと思います。

納得できない役を長く演じ続けることは、心身の負担になることがあります。

本当は休みたいのに、元気な人を演じ続ける。

本当は助けてほしいのに、一人で何でもできる人を演じ続ける。

本当は傷ついているのに、何ともない人を演じ続ける。

周囲の期待に応えようとして、自分でも納得していない役を演じすぎると、いつか自分の感覚が分からなくなってしまうかもしれません。

病気の調子を崩すことにも、つながり得ると思います。

だからこそ、ときどき立ち止まり、

「私は、なぜこの役を演じているのだろう」

「この役を、今の私は引き受けたいと思っているだろうか」

「この役の演じ方を変えることはできないだろうか」

と問い直すことが大切なのだと思います。

納得できなくても、受容することはできる

しかし、人生には、どうしても納得できないことがあります。

病気になったこと。

傷つけられたこと。

失敗したこと。

望まない役を引き受けざるを得なかったこと。

筋道を立てて考えても、腑に落ちる理由が見つからない出来事もあります。

納得するためには、ある程度のロジックが必要です。

「こういうことがあったから、こうなった」

「この経験には、こんな意味があった」

そのように自分の中で物語を組み立て、腑に落ちたときに、私たちは納得できます。

けれど、出来事の直後には、その物語をつくれないこともあります。

そんなとき、納得より先にできることがあるとすれば、それは受容なのかもしれません。

受容とは、出来事を肯定することではありません。

不本意なことを「よかった」と思い込むことでもありません。

納得できない。

受け入れたくない。

それでも、今の自分の中に、この出来事が存在している。

まずは、その事実を事実として置いておく。

「私はまだ、これに納得できていない」

という自分の状態を、そのまま認める。

それもまた、受容の一つなのだと思います。

納得できれば、受容することは比較的容易です。

けれど、納得できなくても受容することはできる。

そして、先に受容することで、時間の経過とともに納得が後からついてくることもあるのかもしれません。

過去の事実は変えられなくても

私が大切にしている言葉があります。

「過去の事実は変えられないけれど、過去の解釈は変えられる」

起きた出来事そのものを消すことはできません。

しかし、その出来事が自分の人生においてどのような意味を持つのかは、その後の人生によって変わっていきます。

当時はただ苦しかったことが、後になって誰かの苦しみを想像する力になるかもしれません。

遠回りにしか思えなかった時間が、新しい人や場所との出会いにつながるかもしれません。

「あの出来事があってよかった」とまで思えなくても、

「あの出来事を抱えながら、私はここまで来た」

と思える日は訪れるかもしれません。

今は納得できない過去も、これから経験する喜びによって、少し違って見えることがあります。

あの時があったから、今日の喜びがある。

そのように感じられる瞬間が、人生のどこかで訪れるかもしれません。

何者でもない時間の延長に

一人でおいしいものを食べている時間。

好きな音楽を聴いている時間。

趣味に没頭している時間。

誰かと目的もなく話している時間。

そんなとき、私たちは社会的な役割をあまり意識していません。

誰かに評価されるためでもなく、期待に応えるためでもなく、ただその時間を味わっています。

そうした時間の延長に、自然体というものがあるのかもしれません。

ただし、自然体とは、永遠にそこへとどまることではありません。

私たちは再び社会に出て、仕事をし、人と関わり、さまざまな役を演じます。

大切なのは、役を演じないことではなく、いつでも戻れる場所や時間を持っていること。

役を降りてもよい自分を知っていること。

そして、再び役を演じるときには、自分なりの納得や受容を携えて舞台に立つことなのだと思います。

病気をコントロールする人生から

病気とともに生きていると、生活の中心が「病気をコントロールすること」になりやすいものです。

薬を飲む。

睡眠を整える。

無理をしない。

ストレスを避ける。

体調の変化に注意する。

どれも大切なことです。

しかし、病気をコントロールすることだけが人生の目的になってしまえば、自分が何のために生きているのかが分からなくなってしまうことがあります。

病気を安定させることは、人生を生きるための土台です。

土台を整えた先で、どのような自分として働き、誰と関わり、何を大切にして生きていくのか。

これから必要になるのは、病気のコントロールだけではなく、仕事や役割と、自分のアイデンティティを結び直していくことなのだと思います。

仕事をしている自分と、病気を抱えている自分。

支援する自分と、支援される自分。

頑張る自分と、休む自分。

それらを別々のものとして切り離すのではなく、矛盾を抱えたまま一人の自分として生きていく。

一つの役に自分を固定せず、そのときどきに必要な自分を演じながら、それでも舞台の主導権は手放さない。

役を磨くこと。

何も演じずに休むこと。

演じている自分を受容すること。

納得できないときは、その違和感に耳を澄ませること。

その間を行き来しながら、自分なりの自然体を探し続けていく。

自然体とは、最初からどこかに存在する「本当の自分」を発見することではないのかもしれません。

さまざまな自分を生き、演じ、休み、受け入れていく中で、少しずつ育てていくものなのだと思います。