こんにちは。
間が少し空いてしまいましたが、第4回の心が安らぐ仏教の教えを開かせてください。
これまでのおさらいですが、仏教とはなにか、から始まり、四法印を一つずつ説明してきました。
四法印とは人間が苦しみを理解し、解放されるための過程を示した仏教の教えです。
四法印の一つである、一切皆苦は何事も苦を伴うという教え、諸行無常は、何事も変化し移ろい常に同じ状態あることはあり得ないという教えです。
移ろいを受け入れ、それから生じるあらゆる苦を認めること、苦が生じていることを一歩離れて観察することが重要だと、説明してきました。
今日は四法印の教えの3つ目、「諸法無我」について考えていきましょう。
諸法無我とは
「諸法無我(しょほうむが)」は、すべてのものには不変の自己(我)が存在せず、独立して存在するものはない、という教えです。
「諸法」は「すべての事物・現象」を指し、「無我」は「固定された自己が存在しないこと」を意味します。
つまり、すべてのものは相互に依存し合い、独立した存在としての「我」を持つものはないということです。
この考えは、他者や環境とのつながりの中で自分をとらえ、無理に「我」に固執することを手放すための智慧を示しています。
自我という執着
皆さんは自分に対してこう思ったことはありませんか。
「自分は常にいい親(子)でありたい。」
「自分は常に学年で1位でありたい。」
「自分は正義感の強い人間でありたい。」などなど…
仏教ではそれらが一種の執着だというのです。
自分の未来のありたい姿、ありたい自分で居られない現在、ありたい自分で居られなかった過去に対して、執着することで苦しみが生じるというのです。
確かに、いい親でありたいのに、子から「生まれてこなければよかった」などという痛烈な言葉を浴びさせられてしまったとしたら、かなりの苦しみが生じますよね。
そう思わせてしまった過去と現在の自分と、いい親になるべきという未来への執着が苦しみを生じるのです。
諸法無我には、そういった、自我への執着を手放す大きな教えが含まれています。
では、具体的に、諸法無我にどのように気づき、受け入れることが出来るのでしょうか。
自分の本質って何だろう
「自我」とは「自己を意識する心の中心」を指し、これは「自分が認識する自分の本質」とも言い換えることが出来ます。
少し考えてみてください。
あなたの認識するあなたの本質って何でしょう。
自分の本質と聞かれて、何が浮かんだでしょうか。
「私は親であり、会社員であり、子供であり、夫である。」などというように関係性を思い浮かべたでしょうか。
それとも、
「自分は正義感が強い。思いやりを大切にする。嘘を言わない。」などといった性質を思い浮かべたでしょうか。
どちらが正解かというと、どちらも不正解です。
なぜか。
あなたはあなたの本質を探すときに自分というものを分解していったのではないでしょうか。
分解していった中に、自分の核となる部分はどこかを探したと思うのです。
親、会社員、子供、親という役割に分解していって、どこに自分の核があるでしょうか。
もう気づいた方もいるかもしれませんが、あなたというものの本質は、親、会社員、子供、親という役割のどれか一つにあるとは言えず、それらを包括したものが、あなたなのです。
性質についても同じです。
ここで分かりやすい例としてペンを思い浮かべてください。
ペンの本質はペンを分解していったどれかの部品にあるものでしょうか。
分解した瞬間にペンはペンでなくなってしまいますよね。
自我という、自分が認識する自分の本質は包括的なものであり、分解してどこかにある、核心のようなものはないんです。
諸行無常からわかる諸法無我の意味
諸行無常は、何事も変化し移ろい常に同じ状態あることはあり得ないという教えです。
その教えが諸法無我の本質にも関連しています。
先ほど自我は包括的なものであると説明しましたが、包括的に見たときに、常に変わらない自我というものってあると思いますか。
ないんですよね。
自分を構成するものって絶えず変わっていきます。
役割という関係性もそうだし、性格や価値観などの性質もそう。
常に流動的で移ろい、理解しようと分解するとその瞬間に自分は自分でなくなってしまう。
そんなのものが自我なのです。
それはもう、ないと言ってしまえるものではないでしょうか。
それが「諸法無我」、「すべてのものには不変の自己(我)が存在せず、独立して存在するものはない」という教えなのです。
諸法無我に気が付くと
今までの説明で、固定化された自我というものなんてないよ、ということが理解していただけたのかなと思います。
では、それに気づけると何がいいのか。
それは自我への執着を手放すことで、大きな苦しみから抜け出すことが出来るのです。
先述したように固定化された自我への執着を手放すことで自分を受け入れることが出来ます。
多くの人は、自分自身を「こうであるべき」「こうありたい」といった固定的なイメージで捉えようとします。これがいわゆる「自我」となり、理想の自己像や過去の自己に対する執着につながります。このような「自我への執着」は、自分を過剰に防衛しようとしたり、他人との比較で苦しんだりする原因となります。
仏教の「無我」では、この固定観念を解放し、流動的で変化する自分を受け入れることで苦しみを手放すことを促しています。
また、「自己」への執着を手放すことが他者への執着からも解放されることにつながるのです。
自我への執着を手放せば、自己にとっての理想像やコントロール欲が弱まり、他者との関係にも柔軟さが生まれます。
すると、他者に対する期待や依存が薄れ、相手をありのままに受け入れることが容易になります。
他者に対する執着も、自我と同様に固定的な見方から生まれがちです。
「この人にこうあってほしい」「この関係がこう続いてほしい」という執着は、状況や関係の流動性を見失う原因となります。
自我の執着が和らぐことで、他者や関係も自然の流れの一部として見られるようになるので、思い通りでない現実や変化をスムーズに受け入れられるようになります。
自分と向き合うことの重要性
ここまで読んできた方は、自分が固定的で絶対的なものではなく、むしろ流動的で、環境や人々とのつながりによって常に変わり続けているということを理解していただけたのではないかと思います。
では、そんな自分と向き合うことは無意味なのでしょうか。あるいは不可能なのでしょうか。
「本質がない自分とどう向き合うか?」この問いが私の中で浮かび上がりました。
まず、自分と向き合うことは、変化し続ける「自分」の中で「何を大切にしたいのか」「今どんな価値観を抱いているのか」を確認し、自覚的に生きることにつながります。
これによって、たとえ絶対的な本質がないとしても、毎日の選択や行動において「自分らしい」と感じられる方向性や軸を見出すことができます。
固定された「自分」がないからこそ、流動的な状況や価値観の中で今の自分に誠実に向き合う意義があると感じます。
さらに、そうして見つけた価値観や行動の軸は、完全ではなく、再検討や変化が許される柔軟なものでもあります。
その柔軟性こそが「本質がないこと」と共鳴するポイントです。
流れ続ける川のように、「自分」を固定的に捉えようとせず、その瞬間ごとの自分に対する誠実な向き合いが、自分という存在の成り立ちや他者とのつながりを一層深く理解する鍵になるように思うのです。
おわりに
「諸法無我」の教えは、自我に対する執着を手放すことで、より自由で柔軟な生き方を実現する道を示しています。
自分を固定的に捉えるのではなく、流動的な存在としての自分を受け入れることが、他者との関係においても柔軟さをもたらします。
この教えを実生活に取り入れることで、私たちは自己受容を深め、他者をありのままに受け入れる力を養うことができるのです。
自分自身を知ることは、人生の旅において大切な一歩です。
日々の選択や行動を通じて、何が自分にとって大切かを見つめ直し、変化を楽しむことができるでしょう。
これからも「自我」という概念を問い直し、流れる川のように変化する自分を大切にしながら、心安らぐ日々を過ごしていきましょう。
次回は、四法印の最後の教え「涅槃寂静」について掘り下げ、心の平安について考えていきます。どうぞお楽しみに。
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