私はかつて、人間の思考や感情も科学的なアプローチによって論理的に理解できるはずだと考えていました。もし、その仕組みが明確に解明できるならば、コミュニケーションのすれ違いや誤解もなくなり、人間関係はより円滑になるのではないか。そう信じていました。
しかし、その考えに囚われるほど、私は次第に心をすり減らし、やがて精神に異常をきたしました。
それは、「科学を信頼する」のではなく、「科学を信仰してしまった」からだったのだと、今では思います。
本記事では、科学を盲信することの危うさと、そこから学んだことについてお伝えしたいと思います。
1. 科学と信仰の違いとは
まず、科学とは何かを整理しておきたいと思います。
科学は、「仮説」「検証」「修正」を繰り返しながら、私たちが世界を理解するための手段として発展してきました。新しい発見や証拠があれば、それまでの理論も修正されるという特徴を持っています。
しかし、「科学が絶対に正しい」「すべての事象には科学的な説明が存在する」と思い込んでしまうと、それはもはや信仰の領域に入ってしまいます。科学を唯一の真実として依存することで、思考が硬直化し、むしろ視野が狭くなってしまうのです。
私は、まさにこの落とし穴にはまりました。
2. 「相手の思考は論理的に読めるはず」と信じた時期
ある時期、私は「人の思考も論理的に予測できるはずだ」と強く考えていました。
コミュニケーションの場面では、相手の立場やバックグラウンドを考慮し、「もし自分が同じ環境で育ち、同じ経験をしていたら、この人はこう考えるに違いない」と仮説を立てていました。そして、それを検証し、修正することで、相手の思考を正確に読み取れるはずだと信じていたのです。
そのために、私は現実の対話の中で無数のパターンを頭の中でシミュレーションし続けました。相手の言葉や表情、仕草を観察し、「この状況なら、こう考えるはずだ」「この反応は、こういう背景があるからだ」と推測し、それを脳内で何度も検証していました。まるで相手の思考を数学の方程式のように解き明かそうとするかのように、会話のたびに微細な分析を繰り返していたのです。
しかし、それを続けるうちに、私は**「読み取れないものがある」ということに耐えられなくなっていきました**。
3. 科学では説明しきれないものに苦しむ
科学を信頼するということは、「論理的に説明できることを正しいとする」という姿勢でもあります。
しかし、人間の心は論理だけでは説明しきれない部分があると、次第に気づき始めました。
例えば、「なぜこの人を好きになったのか」「なぜこの出来事がこんなに心に響くのか」といった感情の動きには、論理を超えた要素が存在します。
にもかかわらず、私は「感情の動きにも明確な法則があるはずだ」と考え、それを解明しようとしました。
「何が正しい選択なのか?」
「どの行動が最も合理的なのか?」
「どうすれば最適解を導けるのか?」
このように、あらゆる人間関係を理論で解明しようと試み、正しい答えを求め続けました。
しかし、答えは出ませんでした。人の心は、数式のように整理できるものではなかったのです。
その事実を受け入れられず、私は次第に強い不安を感じるようになりました。相手の思考を正確に読めなければならない、間違ってはいけない、と自分を追い詰め、結果として精神のバランスを崩してしまいました。
4. 科学を盲信することの危うさ
私は、科学を信じすぎた結果、心の柔軟性を失い、行き詰まりました。
特に、人の心に関する問題では、「科学的に正しいこと」よりも、「その人にとってどう感じられるか」のほうが重要になることがあります。
例えば、精神疾患の回復についても、「この方法が統計的に有効だから、すべての人に当てはまるはずだ」と思い込むと、個人の違いや感情の揺らぎを無視してしまいます。
しかし、実際には、科学では説明しきれない個々の体験があるのです。
科学が提供するのは「統計的に有効な方法」ですが、それがすべての人にとっての正解であるとは限りません。
私は、「科学が示す方法こそが唯一の正しい答えだ」と思い込み、それに適応できない自分を責めました。
結果として、私は心を壊し、深刻な精神的な危機に陥りました。
5. 科学を信頼しつつ、心の余白を残す
この経験から学んだことは、科学を信頼することと、科学を信仰することを区別する大切さです。
科学は、人間が世界を理解するための強力な手段ですが、それは「すべてを説明できる唯一の真理」ではありません。
特に、人の心に関する問題では、「理論」ではなく「経験」が大きな意味を持つことがあると、今では考えています。
科学が示すのは「現時点で最も合理的な説明」ですが、それだけがすべてではありません。
心には、科学では測れないものがあります。
人生には、論理では説明しきれないものがあります。
そのことを忘れずに、科学を道具として活用しつつ、自分自身の感覚や経験も大切にしていくことが、健全なバランスなのではないでしょうか。
こんにちは。
ころたんさんとの会話での第一印象は、聞き上手だなぁでしたよ。
相手の話をしっかり聞いて、考えながらゆっくり話すところなどを拝見して。
さて、私も似たような経験があります。
小学時代に友人と将棋を指すときに、相手が1手指すたびに私の方はあらゆる可能性を何手も先まで読もうとして、最初から考えすぎてしまいなかなか進みませんでした笑。
いまにしてみれば、あまり意味のない思考だったと思います。
えいやで1手さしてみて、1手1手進めるたびに考えながら進めるべきだったと思います。
対話、付き合いでも似たようなものですね。