全能感に飲まれていたころ
私の症状のひとつに「誇大妄想(こうだいもうそう)」があります。
それは、自分の能力や価値を、現実にはありえないほどに信じ込んでしまう心の状態です。
当時は、自分がすべてを理解したかのような強い感覚に包まれていました。
しかし後から思えば、それは現実をしっかりと見つめられていない状態であり、事実とはかけ離れた思い込みでした。
世界の仕組み、人の心の成り立ち、宇宙の真理――あらゆることが「わかったような気」になっていたのです。
それは、自分がどこか特別な存在であるかのように感じる一方で、現実とはかけ離れた孤立でもありました。
地に足をつけ直す過程で
今の私は、症状も落ち着き、以前よりも地に足をつけて日々を過ごせるようになっています。
それでも、自分の能力について考えるとき、ときおりふと、戸惑いや不安がよぎるのです。
仏教を学び、心理学にも触れ、苦しみや心の働きに関心を持ってきました。
けれど、その理解が深まるにつれて、「また、わかったつもりになっているのではないか」と不安になるのです。
一度、全能感を経験してしまった私は、
「理解しているつもり」という状態を慎重に扱わなければならないと自覚しています。
悟りとは何か――答えではなく、問いにとどまること
仏教は、苦しみから自由になるための道を説いています。
私はその道を、自分なりに誠実に歩んでいるつもりです。
だからこそ、ときおりこんな問いが湧きます。
「私は今、どれほど悟りに近づいているのだろうか?」
「“悟った気がする”この感覚も、また妄想の一部なのではないか?」
しかし、釈迦は「真理を理解した」とは言っても、決してそれを絶対的な知識として押しつけませんでした。
むしろ仏教の核心は、「わかること」よりも、「気づき続けること」にあります。
わかったと思ったその瞬間に、執着が始まる。
気づき続けることが、手放しの始まりである。
この言葉に、私は大きな慰めと方向性を感じます。
ニュートラルな自己評価とは何か
全能感を経験した私にとって、「自分を客観的に見る」という行為は、想像以上に難しいものです。
自分の力を過信しすぎないようにする一方で、過小評価しすぎて何もできなくなるのもまた、健全ではありません。
そこで私は、次のような基準を意識するようになりました。
- 自分が「何を知っているか」より、「知らないことに気づけるか」を大切にする
- 他人と比べて「上か下か」ではなく、「共に問いを持っているか」を重視する
- 答えを出すことより、「今、どこに立っているか」を見つめる
そうした視点こそが、誇大でも卑下でもない、「今の自分」を見つめる方法だと感じています。
最後に――問いと共に生きるということ
「私は悟ったのか?」
「人の心を、本当に理解しているのか?」
そんな問いが生まれるたびに、私は立ち止まります。
問いの中にとどまることで、自分の位置を確かめるようにしているのです。
かつて誇大妄想の中で、「すべてが見えていた」と感じていた私。
今の私は、「何もわからない」という前提に立ち戻りながら、
問いとともに静かに歩み始めています。
その問いこそが、私にとっての光です。
答えではなく、気づきに支えられながら、
これからも自分を見失わずに、生きていきたいと思っています。
ふくちゃん コメントとっても嬉しいです。 いつも本当にお世話になってます。 ご縁…