友人が、罵詈雑言の幻聴に怯み、自分の弱さを感じてしまうことがあると話してくれました。
その話を聞いたとき、私はとても胸が痛みました。
罵詈雑言を幻聴として浴びせられるという経験は、私の想像を超えています。
私自身にも幻聴の経験はありますが、それは身の回りの人たちの泣き声でした。
夢を見るとき、現実とはかけ離れた映像が次々と現れるように、幻聴もまた、私たちの意志とは別の、コントロールできない脳の領域から生まれてくるものなのだと思っています。
もちろん、潜在意識が幻聴の内容に影響している可能性はあると思います。
それでも、幻聴の多くは「こうありたい」と願う心とは反するかたちで現れることが多いのではないでしょうか。
私は彼に尋ねました。
「普通の人でも、罵詈雑言に耐えるのはきっとつらいんじゃないかな」
「確かにそうかもしれませんね」
彼は静かにそう答えてくれました。
その幻聴は、おそらく彼自身を非難し、弱点を意識させ、自信を削るような言葉だったのかもしれません。
でも、そんなつらい声にさらされながらも、彼は日々を懸命に生きています。
私はその姿に、深い強さを感じました。
「強い」とは何でしょうか。
「弱い」とは何を指すのでしょうか。
視点を変えるだけで、人は強くもなり、弱くもなるのだと思います。
だからこそ、私は仲間に伝えたいのです。
視点の選択肢を、いくつも持っていてほしいと。
自分にとって少しでも楽で、苦しくなく、心地よくいられる捉え方を選ぶ力。
それこそが、私たちメンタルの不調を経験した者にとって、大切な力なのだと、あらためて感じる出来事でした。
そして今、私はこんな問いを考えています。
「メンタルの不調を抱えた人は、本当に“弱い”のでしょうか?」
たしかに、症状があるときには、集中力が落ちたり、体力がなくなったりすることがあります。
その意味では、「弱さ」と呼ばれる状態に近いのかもしれません。
けれど、それだけではないはずです。
症状を経験したからこそ、育まれる強さもあるのではないでしょうか。
私はそう信じています。
そして、「ない」と言ってしまえば、それはもう「ないもの」になってしまいます。
自分自身で見出していくしかない。誰かに代わって語ってもらえるものではないのです。
私は、自分の弱さを知っています。
だからこそ、その弱さを補いながら、少しずつ強さを育てている途中です。
統合失調症を経験したからこそ、私は、自分の生に厚みを感じるようになりました。
それは、以前とは違う形かもしれませんが、確かに「私だけの道」だと思っています。
この人生を、自分の足で、丁寧に歩んでいきたいです。
揺れながらも、視点を選びなおしながら。
そして、自分の中にある「確かな強さ」を、これからも静かに育てていきたいと思っています。
サトシさん コメントありがとうございます。 こちらこそいつもありがとうございます…