〜感じることと、向けないことのあいだで〜
他人の不幸を見て、少しだけホッとしてしまう。
そんな瞬間、自分の中にある「シャーデンフロイデ(Schadenfreude)」という感情に気づくことがあります。
それは決して美しい感情ではありません。
でも、きっと誰の心にも、ふと顔を出すことがある――そんな、人間らしい揺らぎなのかもしれません。
大切なのは、それを「感じること」ではなく、「どう扱うか」なのだと思うのです。
シャーデンフロイデとは何か?
「シャーデンフロイデ」はドイツ語で、
Schaden(不幸)+Freude(喜び)=他人の不幸に対する喜びを意味します。
たとえば――
・自分より優れて見えた人が失敗したとき
・傲慢だった誰かが痛い目にあったとき
・羨ましかった相手がつまずいたとき
そんなとき、ほんの一瞬「ざまあみろ」や「ちょっとスカッとした」気持ちが顔を出す。
自分の中の小さな黒い感情に、ドキッとする。
でも、これってきっと「あるある」でもあるのです。
競争や比較の中で生きていれば、誰の心にも起こりうる感情。
それを完全に否定するのではなく、正直に見つめることから始まるのかもしれません。
向けられたときの痛み
シャーデンフロイデは、誰かが「得をしている」「恵まれている」と見なされたときにも、向けられることがあります。
たとえば、美しい容姿を持っているというだけで、
「どうせチヤホヤされてるだけでしょ」
「外見で得してる人は中身が空っぽ」
そんなふうに、言葉に出さずとも、冷ややかな視線が注がれることがあります。
あるいは――
・勉強ができる
・キャリアが順調に見える
・家庭が安定している
・話し方や態度に自信があるように見える
そうした「うまくいっているように見える人」に対して、
無意識に「つまずけばいいのに」と願ってしまうような感情が生まれることもある。
私にも、はっきりと言葉にされたことはありませんが、
なんとなく妬まれているような空気を感じたことがあります。
ちょっとした成功や称賛のあとに、場の空気がすっと冷える。
「これ以上目立たないで」
「調子に乗るなよ」――そんな無言のメッセージが、視線や距離感から伝わってくる。
相手にとっては些細な反応だったのかもしれません。
でも、その見えない圧力は、じわじわと心に染み込んで、
まるで「あなたの幸せは誰かの不快を招いている」と言われているような、
居場所を揺るがす感覚をもたらします。
だからこそ、私は思うのです。
自分がシャーデンフロイデを感じたとき、
それを人に向けないでおくことの大切さを。
感じることと、向けないことのあいだで
シャーデンフロイデを感じる瞬間は、きっとこれからもあるでしょう。
でも、だからといって、それをそのまま誰かにぶつける必要はない。
むしろ、その感情に気づけたこと自体が、
「どう生きたいか」を選び直すきっかけになるのだと思うのです。
自分の中に湧き上がる感情に、そっと光を当てる。
「今、自分はこう感じているんだな」と受けとめて、
そのまま、人に投げ返さない努力をする。
そうやって感情と付き合っていくことは、静かだけれど確かな強さかもしれません。
黄金律に立ち返る
「自分がされて嫌だったことは、人にもしない」
「自分がしてほしかったことを、人にもする」
それが、古くから語られてきた黄金律。
シャーデンフロイのような感情に気づいたときこそ、
このシンプルだけれど奥深いルールに、私は立ち返りたい。
わたしたちは誰もが、弱さを抱えている存在。
その弱さを抱えたままでも、他者に優しさを向けられるとしたら――
それはとても強く、しなやかな生き方だと思うのです。
naoさんコメントありがとうございます。 おっしゃる通り、状況によっては「わから…