MENU

クリックが励みになります♪

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

仏教の教え

識次第 ― 世界をつくる心のはたらき

識次第 ― 世界をつくる心のはたらき

仏教の分野に「唯識論(ゆいしきろん)」という説があります。それは、「すべては識(しき)のみである」という考え方です。私たちが見ている世界は、外の出来事そのものではなく、心の識がどのようにそれを認識しているかによって成り立っています。つまり、世界は「識次第」であり、私たちは自分の識を通して世界を創り出しているのです。

世界は識によって見えている

私たちは、目で見て、耳で聞き、肌で感じながら生きています。けれど、それらの感覚を「感じている」と気づくのは、すべて識のはたらきです。たとえば、同じ景色を見ても、心が穏やかなときは美しく見え、焦っているときは灰色に見えることがあります。外の世界が変わったわけではありません。変わっているのは、世界を映し出す心の識のほうなのです。このことに気づいたとき、私たちは「現実とは何か」という問いを、自分の内に向けて投げかけるようになります。

末那識と阿頼耶識 ― 無意識の層を知る

唯識論では、表面的な六つの識(五感と意識)だけでなく、その奥に「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」という深い層があると説かれます。末那識は、「私が」「私こそが」と絶えず自分に執着し、他と比較し、守ろうとする心。そして阿頼耶識は、これまでの経験や感情の痕跡――いわば「心の種(しゅ)」が蓄えられていく倉のような場所です。

私たちは、意識していないところで、日々この阿頼耶識に種をまき続けています。善い行いも、苦しい思いも、すべてがそこに沈み、いつか芽を出して新しい現実としてあらわれます。

たとえば、誰かに否定されたとき、心の中で「また認められなかった」「どうせ自分なんて」と思ってしまうことがあります。それは、過去に味わった痛みの記憶が阿頼耶識の奥に沈み、その記憶を守ろうとする末那識の働きによって、同じ反応を繰り返しているからです。けれど、「これは相手の言葉ではなく、自分の識が反応しているのだ」と気づけたとき、心の景色は少し変わります。相手を責める代わりに、自分の内で起きている反応を見つめることができたとき、世界の色がほんの少しやわらかくなるのです。

過去も未来も識の中にある

過去とは、記憶としての識のあらわれです。同じ出来事でも、思い出すたびに意味が変わるのは、識が変化しているからです。未来とは、想像としての識の投影です。不安も希望も、まだ起きていない世界を識が先取りして描き出しています。

結局のところ、私たちは「いま」という識を通して、過去も未来も見ています。だからこそ、識を整えることができれば、過去はやさしく、未来は穏やかに感じられるようになります。過去を変えることはできませんが、過去をどう識するかは、いまの私たちに委ねられています。

識次第に生きるということ

唯識の理解は、現実逃避ではありません。むしろ、現実をより深く見つめるための道です。たとえば、人との関係がうまくいかないとき、「相手が悪い」と考えるのは自然なことですが、その裏には自分の末那識が「正しさ」や「承認」を求めている働きがあります。そのことに気づけると、相手を責める心が少しやわらぎます。識を観察するとは、心の中で起きる小さな波に気づくこと。その波を見つめているうちに、私たちは少しずつ、より自由な識のあり方へと変わっていくのです。

終わりに ― 世界は識の鏡

世界を変えることは難しくても、識を変えることで、世界の映り方は変えられます。「識のみ」とは、私たちが絶えず世界を創り続けているということ。識が澄めば、世界もまた澄みます。いまこの瞬間、私がどんな識を持って生きているか――それこそが、私という存在の世界そのものなのです。

クリックが励みになります♪

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です