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ことばの立ち上がる場所――中立点からの選択

ある行為をするとき、私たちは無意識に言葉を浮かべている。
「してあげる」と思うときと、「させていただく」と思うとき――
そのたったひとつの違いが、私たちの態度を変え、関係のかたちを変えていく。

言葉とは、単なる表現ではない。
それは、自分がどこに立って、誰に向かおうとしているのかを明示する選択である。

態度は空間の中にある

私は最近、言葉に宿る態度を「空間」として捉えている。

ある行動を起こすとき、私たちは意識せずとも、いくつもの軸の交差点に立っている

  • 能動か、受動か
  • 上下か、対等か
  • 自分中心か、相手中心か
  • 押し出すか、引き受けるか

こうした軸は、まるで見えない座標のように、言葉を使う私の立ち位置を決定している。
たとえば「してあげる」は、能動性が強く、自分中心で、上下の構造を持つ表現だ。
一方「させていただく」は、相手の許可を前提とした謙譲であり、相手に主導権をゆだねる姿勢が含まれる。

このように、言葉は空間の中に散らばり、それぞれに特定の「態」を伴って立ち上がる
そして私たちは、日々の対話のなかで、そのどこかに自分を位置づけている。

では、その空間の“原点”とはどこにあるのか

私が最も考えたいのは、ここだ。
すべての軸がまだ交差しない、「中立点/ゼロ地点」の存在である。

そこではまだ、「してあげる」も「させていただく」も生まれていない。
そこでは上下もなければ、能動も受動もない。
言葉も意味も関係性も、まだ分化されていない。

ただ、「私」と「あなた」が存在している――それだけの場。
言い換えれば、私とあなたの間に、まだ何も“注釈”がついていない地点
意志も態度も方向も持たず、ただ存在と存在が並んでいる静かな場所。

この中立点は、どこにも偏らないという意味での「無色」ではない。
むしろ、どんな関係性もそこから立ち上がりうる“可能性の泉”のような場である。
そこには傾きがないからこそ、どの方向にも歩き出すことができる。

言葉は選び取られる

私たちは日々、この中立点に立っているわけではない。
むしろ多くのとき、特定の関係性の中にいて、無意識のうちに言葉を発している。

けれども、ふと立ち止まったとき。
「あ、いま私は“してあげる”という位置から行動しようとしている」
「いまの私は“させていただく”という態度をまとおうとしている」

そう気づけたとき、私たちは一瞬、中立点に戻ることができるのではないだろうか。

そしてその中立点に戻ることこそが、
「この言葉でいいのか?」と選びなおす自由を、私たちに与えてくれる。

中立点から始めるということ

私は、ことばの選び方が人を決めるとは思っていない。
けれど、言葉の選び方が自分の中の態度や関係性を“育てていく”とは思っている。

言葉は単なる表現ではなく、私たちの内なる位置取りを映し出す鏡だ。
だからこそ、ときに中立点へ立ち返り、自分がどこに立っているのかを見渡すことは、
他者と誠実に向き合おうとする私たちにとって、とても大切な習慣なのではないかと思う。

中立点は、いつでもそこにある。
選ぶ前の、判断する前の、意味がまだ付いていないところに。

私はその場所に、何度でも立ち戻りたいと思う。

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