こんにちは。
今日は心が安らぐ仏教の教え、第2回となります。
前回は「仏教って何?」というテーマで、仏教、つまり「仏様の悟りを開く過程での教え」が現代社会においても大変参考になることを紹介しました。
皆さんが仏教の哲学的側面に興味を持っていただけたらと思って書きましたので、まだご覧になっていない方は以下にリンクを貼りますのでご覧ください。
さて、第2回はと言いますと、人間が苦しみを理解し、解放されるための過程を示した四法印の最初の項目、「一切皆苦」について考えていきたいと思います。
一切皆苦とは
「一切皆苦(いっさいかいく)」とは、人生のすべては苦しみで満ちているという意味です。
「一切」は「すべてのもの」、「皆苦」は「苦しみである」を表します。
人生には避けられない苦しみが存在し、これを理解し、受け入れることが大切だと説いています。
『「人生のすべては苦しみで満ちている」なんて、そんな悲観的なことが教えなの!?人生には楽しいことや嬉しいことだってたくさんあるじゃない!!』
そう思った方もいるのではないでしょうか。
でも、次の話から、理解していただけるのではないかと思います。
たとえば、あなたが大切にしているものを思い浮かべてみてください。それは家族かもしれませんし、友人や恋人、あるいは趣味や夢かもしれません。
これらは確かに、喜びや幸せをもたらしてくれますよね。
では、そんな大切なものを失うことを想像してみてください。
失った時に感じる苦しみは、どんなに小さなものでも避けがたいものです。
失うことがなければ感じなかった「苦しみ」も、そこに生まれます。
仏教でいう「一切皆苦」とは、すべてが不幸だとか、人生には喜びがないという意味ではなく、喜びや幸せですら永遠に続くものでなく、その変化や失うことによって苦しみが伴うという現実を指しているのです。
さらに考えてみましょう。
もし、あなたが欲しいものを手に入れたとしても、それは永遠に続くでしょうか?
新しいスマートフォンを手に入れてワクワクする気持ちも、いずれ慣れてしまい、新しいモデルが登場すれば、また欲しくなるでしょう。
夢を叶えても、次の目標を追いかけたり、維持することに不安を感じたりするかもしれません。このように、満たされない心が常に新しい苦しみを生むのです。
一切皆苦は安らかに生きることの出発点
人生はすべてに苦しみを伴う。
その現実に気づいていただけたでしょうか。
すべての人に共通して避けられない苦しみとして以下の苦があると説かれています。
- 生老病死の苦: 生まれること、老いること、病気になること、死ぬことの苦しみ。
- 愛別離苦: 愛する者と別れなければならない苦しみ。
- 怨憎会苦: 嫌いな人と出会う苦しみ。
- 求不得苦: 欲しいものが手に入らない苦しみ。
これらの苦しみやその他ありとあらゆる苦しみをどのように軽減し、心の安定を見つけていくかで心安らかに生きていけるかが決まっていくように思います。
そういった意味で、仏教の「一切皆苦」は安らかに生きることを考えるための出発点であると言えます。
四法印の最初の項目である理由も分かっていただけたのではないでしょうか。
仏教は、「苦しみの原因」を理解し、それを克服する道を示している教えなのです。
ここで、生成AIに頼んでたとえ話を作ってもらいました。
『ある日、少年がお気に入りの砂の城を海辺に作りました。とても立派な城で、少年は満足していました。しかし、やがて波が押し寄せてきて、城は少しずつ崩れていきました。少年は必死に城を守ろうとしましたが、波は止められず、最終的に城はすべて流されてしまいました。少年は悲しくて泣きました。
そこへ通りかかったおじいさんが言いました。「波が来るのは当たり前なんだよ。だから、砂の城が壊れることを嘆くより、また新しい城を作る楽しさを味わってみなさい。」
少年は気を取り直し、新しい城を作り始めました。そして、壊れることを恐れずに、ただその瞬間を楽しむことができました。波がまた来ても、少年はもう悲しみませんでした。彼は楽しんだ時間がすべてだと気づいたからです。』
このたとえ話で、少年は城が壊れる苦しみや変化を避けられないものとして受け入れることで、「砂の城が壊れずにそのまま残ってほしい」という望みや期待への執着から解放され、心が軽くなっていきます。
私の執着を手放して安らかになった経験
私の人生に当てはめて考えてみます。
私の人生での大きな出来事の一つが、統合失調症という精神疾患を発症したことです。
それはもう、大変な苦しみでした。
一時は今までに出来ていたことのほとんど全てのことが出来なくなってしまい、絶望に打ちひしがれました。
回復の過程でも「病前はこんなことなかったのに」と色んなことが出来ていた過去や「なんで病気になったんだ」と病気になった原因に執着しました。過度に固執して苦しみを生んでいたのです。
確かに過去の自分への執着が全くなければこんなに早い回復(リカバリー)はしなかったように思います。
今では病前の過去の自分に過度に執着することはありません。
病気になって上手に出来なくなったことや、まだまだ不安定な部分もありますが、病気になったからこそ出来るようになったことも多くあるのです。
こうして心について考える機会も病気がきっかけです。
「なんで病気になってしまったんだ」「なんであの時ああしたんだ」というような過度な過去の出来事への執着にとらわれず、執着を手放したことで、現在の自分に目が行き、心穏やかにいられます。
過去を思い悩むことで生じるストレスや不安から解放され、リラックスした状態を保てているのです。
おわりに
「一切皆苦」という仏教の教えは、人生における苦しみの不可避性を理解することから始まります。
この教えを受け入れることで、私たちは苦しみを恐れるのではなく、むしろそれを通じて成長し、心の安らぎを見つける道を歩むことができます。
日常の中で喜びを感じる瞬間は確かに存在しますが、その背後には変化や喪失が潜んでいることも忘れてはなりません。
苦しみを理解し、受け入れることで、私たちは執着から解放され、より自由な心で生きることができるのです。
今回を通じて、仏教の哲学的な視点を少しでも身近に感じていただけたなら嬉しく思います。
苦しみを共に抱える全ての人々に、この教えが心の安らぎをもたらすきっかけとなりますように。
次回もお楽しみに。
いちさん コメントいただき有難うございます。 私にとってもとても有意義な会になっ…