正しさのつもりが、心にざわめきを残した
ある日のこと、私は自分の意見を真剣な気持ちで伝えました。
相手を否定したかったわけでも、場の空気を乱したかったわけでもありません。
むしろ、その場にいる人たちが、もっと安心していられるように――そう願っての言葉でした。
けれどその後、胸の奥に静かなざわつきが残りました。
「私の言葉で誰かが傷ついてしまったのではないか」
「もしかすると、私の声は本当は求められていなかったのでは…」
「正しいことを言ったつもりだったけれど、独りよがりだったのかもしれない」
確かな根拠があるわけではありません。
でも、そんな思いがふと心によぎったのは事実でした。
正論は、まっすぐすぎることがある
正論というのは、とてもまっすぐで力のあるものです。
だからこそ、ときにそれが思いがけず、誰かの心の柔らかい部分を切りつけてしまうことがあります。
しかも、そのことに自分では気づかないまま、ということもあるのです。
自分では丁寧に言ったつもりでも、相手にとっては「攻撃」や「拒絶」として届いてしまうこともあります。
そうしたすれ違いは、きっと誰の身にも起こりうるものだと思います。
表現することと、尊重することのあいだで
だからといって、「何も言わない方がよかったのか」とは思いません。
自分の思いや考えを表すことは、自分を大切にすることであり、自分の尊厳を守ることでもあります。
けれど同時に、「言う自由」と「受け取る自由」は別のものだということも、忘れずにいたいと感じました。
伝える自由と、受け取る自由。
そのどちらも尊重されてこそ、対話は本当の意味で成り立つのだと思います。
私のなかの問いかけ
私は今でもときどき、自分に問いかけます。
「私は、ただ正しいことを言いたいのだろうか。
それとも、大切にしたい誰かとの関係を守りたいのだろうか。」
きっと、そのどちらか一方だけを選ぶことなんて、できないのだと思います。
正しいと思うことを伝えたいし、それと同じくらい、目の前の人を大切にしたい。
その両方の気持ちのあいだで、私は揺れ続けています。
でも、「正しさを伝えること」と、「誠実にいること」は、少し違う気がしているのです。
対話は、まず聴くことから始まるのかもしれない
そして最近、こんなふうにも感じるようになりました。
対話のはじまりは、語ることよりも、聴くことなのかもしれません。
自分の思いを届ける前に、
「この人は何を大切にしているのだろう」
「この人に、私はどう映っているのだろう」
そんな問いを、自分の中にそっと置いてみる。
相手を大切にしたいと本気で思っているのなら、
まずは静かに“受けとる側”になるところから、対話は始まるのかもしれません。
そうして初めて、お互いの言葉がすれ違わずに、同じ場所に立てるのではないか――
そんなふうに思うようになりました。
傷つけないことより、大切にすることを
完璧な言葉なんて、きっとどこにもありません。
でも、私が本当に大切にしたいのは、
「相手を傷つけない言葉」ではなく、
「相手も自分も大切にする言葉」です。
そのバランスを探しながら、これからも私は、言葉を選び続けていきたいと思います。
サトシさん コメントありがとうごさいます。返信が遅くなってしまいました💦 聞き上…