真とは何か、自分に問いかける
「真とは何なのだろう」「真のことなど存在しうるのだろうか」――
そんな問いが、ふと心に浮かびました。
誰かに答えてもらいたいわけではなく、ただ静かに、自分自身に問うていたのです。
問いを持つことは、私にとってごく自然なことで、生きるうえでのひとつの習慣のようなものでした。
ただ目の前のことを受け入れるのではなく、立ち止まり、揺れながら考えてみる。
それは自然なことであり、どこか喜びすら感じる営みでした。
問わない人は劣っているのか?
けれどあるとき、ひとつの疑問がわきました。
「問いを持たない人は、問いを持つ人に比べて劣っているのだろうか?」
その問いの裏に、私自身の中に潜んでいた無意識の物差しを感じたのです。
問いを持ち、考え続けることが「正義」になったとき、
問いを持たない人は、まるで「悪い」かのように見なされてしまうかもしれない。
そんな危うさに、私は怖さを覚えました。
問うことは、人を裁くためのものではない
問いは本来、誰かを裁くためのものではないはずです。
問いを生きることは、ただ「高尚な営み」ではありませんし、
他人に問いを押しつけたり、答えを迫ったりするものでもありません。
むしろ、静かに生きる誰かの時間や沈黙を大切に思う気持ちとともにあるべきだと、私は感じます。
問いを持つ人も、問いを持たない人も、それぞれのリズムで生きている。
その違いを尊重し合えることこそが、問う姿勢の根底にあるやさしさではないでしょうか。
対話という善がもつ影の側面
そしてこの問いかけは、「対話」についての違和感にもつながっていきました。
近年、「対話が大切だ」「対話的な関係が必要だ」という声をよく耳にします。
たしかに対話は、理解や共感、学びをもたらす尊い営みです。
私自身も、対話によって救われた経験が何度もあります。
しかし同時に、「対話をすべきだ」という風潮が、
対話をしたくない人や、沈黙を選ぶ人に対して、無言の圧力となってしまうこともあります。
そうした状況を見ていると、私は次第にこう感じるようになりました。
対話を強いることは、ときに対話の名を借りた暴力になってしまうのではないか。
対話とは、沈黙の自由を許すこと
私は、対話というものをこう捉えたいと思っています。
対話とは、互いに沈黙する自由を持ったまま、言葉を交わす可能性を開いておくこと。
対話をするかどうかは、その人の自由です。
そして、関係性とは、必ずしも言葉を交わすことによってのみ深まるものではありません。
ときには、ただそばにいること。語らずとも、待つこと。
その静けさの中に、信頼や思いやりが含まれていることもあるのだと思います。
問いと対話を生きるということ
私は、これからも問いを生き、誰かと語り合いたいと願っています。
けれどそれは、誰かを問いや対話の場に引きずり込むためではありません。
その人が沈黙を選ぶのであれば、その静けさにそっと寄り添えるようでありたいのです。
語ることよりも、待つことが対話のはじまりなのかもしれません。
あなたが今、問いを持たないことも、語らないことも、
それ自体があなたの大切な時間であると、私は信じています。
ふくちゃん コメントとっても嬉しいです。 いつも本当にお世話になってます。 ご縁…