誰が未来を保証できるのだろう

先日、作業療法士を目指す学生の皆さんに講義をする機会がありました。
講義の中で、私が精神疾患の療養中に支援者からかけられた「必ず良くなります」という言葉について話しました。
すると、学生さんたちから興味深い反応がありました。
「私たちは、そういう言葉は言わないように教わっています」
理由を尋ねると、担当の先生から説明がありました。
「病院側としては訴訟を避けるためというのが多いのかなと思います。」
もちろん、その説明には十分な合理性があります。
医療者や支援者は、結果を保証できる立場ではありません。
「必ず治る」
「絶対に大丈夫」
「必ず就職できる」
そう言ったにもかかわらず、結果がそうならなかったとき、その言葉は本人を傷つけるかもしれません。
だからこそ専門職は慎重になります。
それは誠実さでもあり、責任ある態度でもあるのでしょう。
私もその話を聞いて、「なるほど」と思いました。
病院も支援者も、未来に対して責任を負い切ることはできません。
だから未来を断定する言葉は使えない。
それは理解できます。
しかし、その時に私の中に一つの問いが生まれました。
では、誰が未来を保証できるのだろう
考えてみると、不思議なことです。
医師も保証できない。
作業療法士も保証できない。
精神保健福祉士も保証できない。
家族も保証できない。
本人ですら保証できない。
明日の自分がどう感じているかさえ、私たちは本当には分からないのです。
未来というものは、そもそも誰にも保証できないものなのかもしれません。
それなのに、私たちはどこかで保証を求めています。
「本当に良くなるんですか」
「大丈夫なんですか」
「失敗しませんか」
「意味はあるんですか」
そうやって未来の確実性を探し続けます。
けれど、その答えを持っている人はどこにもいません。
それでも人は希望を語る
ここで私は、あらためて当時受け取った「必ず良くなります」という言葉を思い出します。
もっとも、その言葉が本当にそのまま発せられたのかどうかは分かりません。
入院や療養の時期は混乱の中にありましたし、十年以上前の記憶でもあります。
実際には違う表現だったのかもしれません。
けれど私の中には、「この人は私の回復の可能性を信じている」という感覚が確かに残っています。
そして、その感覚が長い年月を経て、「必ず良くなります」という言葉として私の中に残ったのかもしれません。
今振り返ると、あの言葉は未来を予言した言葉ではなかったのだと思います。
本当に未来を知っていたわけではない。
治ることを保証していたわけでもない。
訴訟のリスクという観点から見れば、専門職としては慎重になるべき言葉だったのかもしれません。
それでも私が受け取ったのは、「あなたには可能性がある」というメッセージでした。
未来を保証していたのではなく、未来の可能性を信じていた。
そして、その可能性を私と共有しようとしていた。
そんな言葉だったのではないかと思うのです。
保証と希望は違う
保証とは、結果に責任を持つことです。
しかし希望とは、結果を断定することではありません。
分からない未来に向かって、それでも可能性を見失わないことです。
未来は誰にも保証できません。
それは医師にも、支援者にも、本人にもできないことです。
けれど、未来の可能性を信じることはできます。
そして、その可能性を一人で持てないときに、誰かが代わりに持っていてくれることがあります。
私にとって「必ず良くなります」という言葉は、未来の保証ではありませんでした。
私が希望を持てなかった時期に、代わりに希望を持っていてくれた人の言葉でした。
誰が未来を保証できるのか
講義のあと、私の中には今もこの問いが残っています。
誰が未来を保証できるのだろう。
たぶん、その答えは「誰もできない」なのでしょう。
未来は保証できない。
だからこそ、人は希望を語るのかもしれません。
保証のない世界で、それでも可能性を信じる。
支援とは、その営みなのではないか。
そんなことを、作業療法士の卵たちとの対話を通して考えさせられました。















サトシさん コメント嬉しいです。 そういっていただき有難うございます。 「諦観」…