「共に在る」
この言葉に、私は静かな感銘を受けました。
それは、どこか特別な技術でも、目に見える支援でもない。
でも確かに、誰かの心に届く、根源的な在り方だと思ったのです。
心の距離という温度
「共に在る」とは、物理的な距離ではなく、心の距離のこと。
対峙するのではなく、隣にすっと腰を下ろすような感覚。
並んで座ることで、相手と向き合うというより、同じ風景を一緒に見ているという関係が生まれる。
役割や立場、関係性など、私たちは普段さまざまな“肩書き”を身につけて生きている。
でも、それらを一度脱ぎ捨てて、「裸の人」として隣に座ってみたい。
自分が鎧を脱ぐことで、相手も少しずつ心の殻を緩めていけるかもしれない。
焚火を囲むように
居づらさが生じるかもしれない。沈黙が続くかもしれない。
けれど、それでもいい。
同じ焚火を囲んで、ただ一緒にいる。
やがてポツリと、相手の苦しみがこぼれる。
それを逃さず、急がず、自分の中にいったん迎え入れる。
その言葉の意味を、咀嚼し、理解しようとする。
理解しようとする姿勢こそ
「究極的な理解」なんて、きっとない。
人はすぐに相手をカテゴライズして「分かったつもり」になってしまう。
だからこそ、意識的にその誘惑と距離をとり、
相手の“個”を尊重し続けることが大切になる。
出てきた言葉をそのまま大切にしながら、そっと言葉を重ねる。
でも、それはアドバイスでも、経験談でも、正解でもなくていい。
「私はここにいる」「あなたの言葉を受けとめている」という姿勢から生まれる言葉でありたい。
導かず、信じる
アドバイスは時に押し付けになる。
自分の正解が、相手の正解であるとは限らない。
ましてや、自分の正解がどこまで正しいかすら、本当は分からない。
だから、一番大切なのは「共に在る」ことそのものなのではないかと思う。
言葉を重ねることが目的地へ導くための手段にならないように。
むしろ、「目的地なんてなくていい」と思えたとき、
相手は自然と、自分のタイミングで立ち上がるのかもしれない。
それぞれの火を持って
たとえその後、物理的な距離が開いたとしても、
焚火を囲んで共に在った時間は、確かにそこにあった。
「わかってもらえた」という経験は、誰かが進んでいくときの糧になる。
私がしたいのは、そんな時間をつくること。
そっと隣に座り、焚火の火を見つめ、共に心をあたためること。
最後に
人の心に深く触れるには、技術よりも在り方が問われる。
解決することよりも、共に揺らぎ、共に黙ることが大切なときもある。
それを忘れずに、「共に在る」人であり続けたいと、心から思います。
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